『「共倒れ」社会を超えて』


野崎泰伸さんの新著です。
この本は、私は生まれて初めて「献本」ということをしていただきました。


さて、表題にある「共倒れ」社会ということですが、こう書いてあります。

他方で、ある特定の相手と閉じた関係性が形づくられ、そこでのみ〈生きづらさ〉が共有されるような場合、「共倒れ」の危険性が出てきます。(p075)

つまり、この社会は、私たちの生存を保障する代わりに、家族など親密な関係にある人びとの愛情によってサポートするよう促すわけです。こうして生存の保障は、社会保障の問題ではなく、家族や近親者の問題へとすり替えられてしまうのです。このような社会であるからこそ、私たちの生存や尊厳を支えるということが、ことさら心理的な問題であるとされてしまうのだと考えられます。(p076)

このように野崎さんは、国や社会全体が問われるべき責任が、私的な閉じた関係性(個人を含むでしょう)の中の心理的な問題にすり替えられてしまう、今の社会のあり方を批判します。
矛盾に満ちた国や社会全体のあり方は、「どうせ変えられないものだから」という暗黙の理由によって不問にされ、その矛盾によって追いつめられた諸個人の不道徳や暴力性のようなものだけが前景化されて、非難されるのです。
その結果、追いつめられた「弱者」が、閉じられた(親密な)関係性の中で、さらに弱い者を攻撃するというような悲劇も生じます。
現在の倫理学の傾向を批判する野崎さんは、こうした困難な状況に置かれた人たちの行動の是非を論じることではなく、そのような状況に各人を追いつめていく、この社会全体の構造を批判し、変えようとすることこそが、真の倫理ではないか、と主張するのです。
その議論は、社会運動や社会全体の問題のさまざまな具体的状況を題材としながら進められていきます。


私は、何度か読み返してみて、この本の、論理の上での重要なポイントは、第2章の「倫理とは何か」の最後の部分、「犠牲と「豊かさ」」という節にあるのではないかと思いました。
ここでは直前に、経済成長至上主義が「交換不可能な価値」を「交換可能な価値」に転換しようとするところに、その暴力性をもつ、ということが指摘された後、野崎さんの重要な概念のひとつである「犠牲」ということについて、次のように定義されます。

犠牲とは、交換や譲渡ができないもの、しないものを、その社会において、それができるようにする力のことである、と言ってよいのではないでしょうか。(p096)

野崎さんはこう述べて、真の豊かさとは、交換不可能性を源泉とする価値のことであり、人は自発的にせよ強制的にせよ、そうした価値を社会に差し出してはならないこと、そのためにこそ交換可能な価値(財、と言いかえてもよいでしょう)は使用されるべきだと、論じています。
そうした犠牲の構造を内面化した、私たち自身の根深いあり方を、野崎さんは次のように表現します。

しかし私たちは、自ら進んで「犠牲」になることで、「交換不可能なもの」を手放してしまうのです。(p192)

その手放す(差し出す)仕方には、自分自身の生活や生存に関わるものもあれば、他人の生を選別し、価値なきものとされた生を排除していくということもあるでしょう。それは、同じことの表裏だと言えますが。

ということは、誰か他の人を「犠牲」にして問題解決を図ろうとする態度と、自己「犠牲」によって問題解決を図ろうとする態度は、同じ「犠牲」の構造に対する二つの異なる態度であると言えるのではないでしょうか。(p197)

ところで、この「交換不可能な価値」ということに関して、本書の後半では、『一般化・抽象化された「生命」ではなく、個別・具体的な「生命」』、そして、「生そのもの」という言葉が出てきます。
この具体的な「生そのもの」をイメージすることは難しいのですが、それは私たちが考える「個」に属するものではなく、野崎さんが言われるように、他者との出会いと関係のなかに、あるいは、日常で出会う人々や世界との他者的な関係性のなかにだけ見出されるものなのかもしれません。
この根本的な関係性をさえぎっているのが、犠牲の構造を本質とするところの、この今日の社会の制度やあり方そのものなのでしょう。
第3章で論じられている出生前診断の問題や、障害児の分離教育の思想に見られるように、他者の存在の出現をあらかじめ封じ、他者との出会いの可能性をすっかり取り除くことによって、人々から「根源的な自由」を奪い、「民主」的な社会の形成を不可能にしている今日の(とりわけ日本の)社会の構造に、障害者差別の現実を見つめて生きてきた野崎さんの怒りは向けられているのです。