『犬猫』

この作品はDVDで見ました。


藤田陽子が同棲していた西島秀俊に愛想をつかして飛び出していくところから話が始まるのだが、こうした場面は日本の私小説とかには何度も描かれてきたと思う。それと何が違うのかというと、私小説は出ていかれる男の側を書いてあるのに対して、この映画では出ていく女の側を描いてあるということだ。
これは、すごく単純な視点の転換だけど、日本で現実にこういう転換が可能になってきたのはここ数年かもしれない。
これはやっぱり雇用環境の変化とかも関係していて、女の人の立場からのものの見方というのが、世間全般(ということは、男社会)にリアリティーをもって受けとめられるようになった表れでもあるのだろう。


この映画では、たとえば榎本加奈子が若い男の子を部屋に連れ込もうとして失敗し、やけ酒を飲むくだりなど、とても面白く描かれていた。


題が『犬猫』であるのは、登場する犬や猫が飛びぬけて存在感があるからだろう。この「動物目線」のようなものが、上に書いたこの映画の視点をよく表わしているように思う。
動物、とくに犬や猫が、その独自の存在感をもって登場する映画というのは、要するに「排除しない」映画である。昔、エリック・ロメールの『海辺のポーリーヌ』という映画を見たとき、画面を出たり入ったりする野良犬の動きが気になってしようがなかった。
作家はこの存在によって何を表現しようとしてるのか、ずっと考えたものだが、どう考えても偶然入りこんできた野良犬に演出をしてるわけがないのだ。いま思うと、その映像が示していたものは、ロメールが、この意味にならない対象(野良犬)を「排除しなかった」ということである。
「出ていく女」の視点でものを見るとは、そういうことではないかと思う。


まったりと、淡々とすすんできた物語は、終盤になって一気に緊張する。小さい頃からの友だちで、反発したり仲直りしたりを繰り返してきた二人の若い女が、ある出来事をきっかけに鋭くぶつかることになるのだ。
人と人は長い間付き合っていると、「ボケ」と「ツッコミ」みたいに役割が決まり、知らず知らずその役を演じることでお互いに依存するみたいになってしまう。
そこで、暴力的にであっても、その固定した役割を強く揺り動かすことによって、お互いに殻が破れたり傷が癒えたりすることがある。
はっきり分からないが、あのくだりではそういうことが描かれてたんじゃないかと思う。
階段のアクション(?)シーンは、なかなか爽快。男はかわいそうだけど。


西島秀俊は、『メゾン・ド・ヒミコ』のときと同様のはまり役だが、やはり違った味を出していて、好演。この役者はいい。
女優陣では、強い殻をもつ女性を演じた藤田陽子がよかったと思うが、演技だけでなく、やっぱり自分の好みもあるな。「視点の転換」はまだまだだ。


オフィシャルサイト。

http://www.inuneko-movie.com/top.html