スターリン外交の実態

スターリン―政治的伝記

スターリン―政治的伝記

結局、スターリンという政治家の資質について、ドイッチャーは総合的にどのような判断を下しているのか。


彼は、スターリンがすぐれた洞察力や判断力、また遠大な深慮をもってさまざまな政策決定や外交を行った、あるいは権力闘争の権謀術数をなしたという、スターリン神話と反スターリン神話の双方に共通する前提を否定する。
スターリンには、状況を判断したり見通す力が根本的に欠けており、その政策や外交は、その都度の場当たり的なものでしかなかった、というのである。スターリンは、状況を見定めることもコントロールすることも出来ない政治家であり、常に状況に流されるままに政策を次々に変更して、無用の犠牲を生じさせることが甚だしかった。
これが、ドイッチャーの提示するスターリン政治の実像だといえよう。


そもそも、ロシア革命を指導した人たちの中でのスターリンの際立った特徴は、その凡庸さにあったということは先に述べた。彼は、滅多に自分の意見を述べることはなく、会議などで人々の話すことにじっと耳を傾けて、それらを集約して最終的にそれを自分の意見とした。これは、彼の謙虚さや調停的な性格を表しているのではなく、スターリンには「自分の意見」と呼べるような創見性や洞察力が欠けていた、ということなのである。
ドイッチャーが、こんな風に書いているのは面白い。

彼の個人的性格は調停者のそれではなかった。彼が妥協の人と共通しているただ一つの特徴は極端なことに対する不信であった。(中略)彼の性格は妥協に頭から反発した。(中略)そのねらいは両極端の意見の接近を図ることではなく、双方とも爆破、破壊することであった。彼は彼より右または左を歩いているように思われた人々の間を調停しようとはしなかった。彼らはこれらの人々をすべてなぎ倒した。彼は革命後の社会に現われた、すべての反抗的な思想と主義を抑圧する中庸主義的独裁の権化であった。中庸主義に対する忠実さを守り続けることのできない中庸主義的独裁者であった。(第二部 p3)


しかし、自分の意見を持たず、それ故に表明もせず、人々の意見を聞いて集約することに徹するというスターリンのスタイルは、党や国家の行政機構という「組織」の意思を体現するには格好のものだといえる。
スターリンは、骨の髄まで「組織の人」(没個性的存在)であったがゆえに、ソビエトという官僚主義的体制の最高権力者になりえたともいえる。
こうした彼のスタイルが、その長所を最も発揮したのは、ナチス・ドイツとの戦争中、軍人たちを指揮するにあたってのことだった。
彼は、ヒトラーのように、自分の独断を職業軍人たちに押しつけて混乱させるようなことは決してしなかった。将軍たちの意見を一人一人丁寧に聞き、それらを集約して作戦行動を決めた。つまり、ここでは彼は調整役に徹したのであり、そうすることで軍人たちの自由な創意のようなものを最大限に引き出し、それがあの奇跡的な戦勝の重要な一因となった、というのだ。


一方、際立った洞察力も決断力も、臨機応変の柔軟性も全く欠如し、場当たり的な対応に終始するという、政治家スターリンの短所が無残なほどよく示されているのは、その外交、とりわけナチス・ドイツへの対処をめぐってである。
彼は、ナチスドイツ国内で勢力を伸ばしつつあった時、その危険性をまったく理解できず、ヒトラーは早晩政治の場から消えていくであろうと考えていた。当時の彼にとっては、彼がコミンテルンを通じて支配するドイツ共産党のライバルである、ドイツ社民党の方が、はるかに大きな敵に思えた。
その結果、次のような事態が生じた。

ヒトラーに対する擁護をヒンデンブルクに期待して共産党と関係することを全面的に拒否した社民党と、社民党をナチよりも大きな脅威であると考えた共産党の間に分裂が生れた。この完全に非合理的な分裂は、ドイツ労働階級の政治力を麻痺させた。(第二部 p87)


当時のドイツ社民党の路線に致命的な誤りがあったことは確かだろうが、ナチスの危険性を全く認識できず、闘争の力点を間違えて、ナチス台頭の道を開いたことは、その後の歴史を考えると弁護のしようのないスターリンの過誤だったといえる。
なお、ナチズムの分析と、その危険性の認識という点では、トロツキーは卓越していた。実はトロツキーも、スターリンレーニンと同じように、しばしば重大な判断ミスを犯すことがあったらしいのだが、この点では非の打ちどころのない認識を示した。
トロツキーは、社民党を支持する労働者との共同戦線を張ることが、ナチス台頭を防ぐための急務であると叫んだのだが、すでに追放され亡命を余儀なくされていた彼の声が、ロシアやドイツの共産党員たちに聞き届けられることはなかったのである。


やがて、ナチスがドイツで政権をとるにいたるのだが、そうなってもスターリンの外交路線は二転三転した。
一貫して西側の資本主義諸国を最大の敵と考えていたスターリンは、それらの国々が反共的な意識からヒトラーを駆り立ててソ連侵攻に向かわせることを怖れ、西側の資本家や保守政治家たちを何とか懐柔しようとする。
こうして出てきたのが、有名な「人民戦線」路線だ。スターリンの命令によって、フランスやスペインの共産党は、社民主義者ばかりか保守勢力との連携をも行うことを強いられていく。
だが、そうして出来た人民戦線の選挙での勝利と労働者たちの高揚は、かえって資本家たちの共産主義への不信感を高めてしまい、この路線はおのずから解体していく。
西側を刺激することを怖れるスターリンの人民戦線(保守懐柔)路線は、内戦下のスペインではとりわけ悲惨な事態を招いた。彼は、対フランコ闘争が成功してスペインに革命的な政府が出来てしまい、西側の反共意識が決定的になることを怖れて、スペインの共産主義者たちに闘争を現状の合法的政府の擁護に留めることを指令したり、極左的なカタロニアのトロツキー主義的党に凄惨な弾圧を加えさえする(後者の様子は、オーウェルが『カタロニア賛歌』で描いている通りである)。
人民戦線の成果については、特にフランスでの事例に関して、今でも賛否両論があると思うが、ナチスへの対抗という面からいえば、これは明らかに何の効力ももたなかったと言えるだろう。また、それは結局、どの国においても、資本家や保守主義者たちの反共意識を強める結果にしかならず、フランスやスペインの共産主義者たちが、その後悲惨な道を辿ることになったのは、よく知られているところだ。
それもそのはずで、これは元々スターリンの「一国社会主義」防衛のための、場当たり的な、しかも誤った外交政策の産物でしかなかったのである。
「人民戦線」とは名ばかりで、この欺瞞的な同盟によって犠牲にされたものは、各国の「人民」自身に他ならなかったと言えるだろう。


ドイッチャー『スターリン』の読書メモは、一応今回で終わります。