原発に反対するということ

この日曜日にも、京都で原発に反対するデモが予定されています。

http://pwkyoto.com/


これまで書いたことの繰り返しになるかも知れないが、一点だけ強調しておきたい。


これまでずっと原発に反対してきたり、今回の原発事故で東北や関東などから危険を感じていち早く避難してるような人たち。
そういう人たちについて、自分や自分の子ども、家族のことだけを気にしてるかのように思うのは、非常に一面的なものの見方だと思う。
放射能汚染による人体への被害というのは、将来統計的に、人口のある総体においてガンの発生率や死亡率が上がるというような結果は見られても、誰かある人がガンになった時に、それが放射能汚染によるものだという因果関係を特定することは不可能なのだという。
このことは、事故を引き起こしたり、その元を作った側(国や企業)にとっては、補償を考える際には好都合だろうと思えると同時に、放射能汚染による自分や自分の家族への被害の可能性を否認し続けたい人にとっても、都合のよいものだろう。
つまり、何年後かにその人がガンになったとしても、それを被曝という事柄と結びつけて考えることを、どこまでも(死に至るまで)拒み続けられるのだ。
だがこのとき、真に見えないことにされているのは、発病率や死亡率の上昇により、「誰かは被害を受けている」という事実である。
その「誰か」は、他人であるかも、自分の子どもであるかも、またはその人自身であるかも知れないが、ともかく、特定できないことによって「他者」である「誰か」なのだ。
放射能汚染による被害の可能性に対する不安の抑圧(やり過ごし)は、この「他者」を見棄てることにおいて成り立つ。


原発に「情緒的に」反対したり、その恐怖から避難したりする人の心理には、こうした「他者」に対する感覚があると考えるべきだ。
もっと正確にいえば、それは私たちの社会が、犠牲にされ見えないことにされるような「他者」の存在によって成り立つものでありうるという事実への、直観的な認識なのだと思う。
「統計的でしかありえない」という、放射能汚染による被害(影響)の特性が、その各人における鮮明さの度合いを炙り出すのは、この他者に対する社会的な感覚である。


これはもちろん、事故の発生にだけ関わる事柄ではない。
日本の原発産業の現場が、不可視の「他者」たちの労働によって担われてきたという事実は、決して偶然的なものではない。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20110320/p1
原発を初めとしてこれまでのエネルギー産業、とりわけ日本のエネルギー産業は(本当は日本に限らないが)、そうした不可視化された被差別的な(内外の)「他者」たちの過酷な労働を土台として成り立ってきた。
いや、エネルギー産業だけでなく、資本と家族関係を含めた社会の全体に、そうした構造を見出すことは可能だろう。


そうした構造は、その事実を否認することを、その土台の上で暮らしている社会の「正規の」メンバーたちに要請する。
だが、その要請に応じて、こうした構造の存在を否認し続けることは、他者とつながっているものとしての自分の生の実在性そのものを、自ら毀損することである。
原発に反対したり、避難したりする人たちが示しているのは、この「他者とのつながり」という次元における生を手放すことへの拒絶なのだ。
だから、この人たちの原初的な恐怖心や不安のなかには、すでに他者についての意識や感覚が含みこまれている。
それを見ようとしない側こそ、他者の存在を切り捨てて、設えられた自己の殻のなかに閉じこもろうとしているのである。