『眉屋私記』

眉屋私記 (1984年)

眉屋私記 (1984年)

上野英信のノンフィクション『眉屋私記』は、以前から読みたかったが、最近やっと読めた。

移民や遊郭の女性となった、やんばるの庶民たちのドキュメント

現在の沖縄県名護市屋部というところで生まれ、メキシコに移民して炭鉱で働き、最後はキューバで死んだ山入端(やまのは)萬栄と、その兄妹たちの伝記。
初めの部分では、沖縄、とくに名護を含む国頭地方の、薩摩による征服以後の苦難の歴史が語られる。

この致命的な「大和の御手討」の傷にあえぐ琉球王府が、起死回生を賭して推進したのは農業生産の拡充であり、農民の収奪強化であった。十七世紀の後半、国頭地方に大規模な行政改革の波が襲ったのも、ひとえにそのためである。(p28)』

 初めて知ることばかり。
 たとえば、蔡温という人は、琉球の歴史の中でも傑出した政治家といわれ、その森林保護政策は、世界に先駆けたものとして、米軍占領当局が英訳して世界に広めたほどだということは知っていたが、本書によれば、その実態は、森に住む住民を不毛の海岸部へと強制移住させるものでもあったという。
 そうやって移住させられた国頭の海岸部の住民は、近世・近代を通して、常に凶作と収奪による飢餓の脅威にさらされた。救いとなったのは、まれに海岸部に押し寄せるヒートゥ(イルカ)の大群だったという。
 辺野古に行ったときに、名護の名物だというイルカ料理を、何度も食べたが、そういう苦難の歴史が背景にあったのだ。
 

 こうした苦難は、明治の天皇政権による支配の始まりと共に、沖縄にとってさらに致命的な破壊となっていく。弾圧や拷問を含むむき出しの暴力と、法制度による地域社会の破壊と強制的同化。
 とりわけ、1899年に発布された土地整理法は、農民を地割制という旧習から解放するという美名のもとに、実際には大多数の貧しい農民たちを債務奴隷化するものだった(これは、明治維新自体もそういうものだが)。実際、これを契機として、「花の島」と呼ばれる那覇遊郭に身売りされていく少女たちが急増する。主人公萬栄の妹たちも、そうだった。
 そして、男たちは、「移民会社」という業者の甘言に煽られて、海外移民することを余儀なくされるが、そのなかでも高収入がうたわれて、明治末期に多くの移民が送り出されたのが、メキシコだった。
 ちなみに、移民は全国から送られたが、沖縄のなかでは、国頭地方からの移民が飛びぬけて多かったのは、(進取の気性と共に)やはり孤立と貧しさのためだろう(ゾルゲ事件宮城与徳や、その父もその一人だった)。
 メキシコでは、主に炭鉱に送り込まれたのだが、その実態は奴隷労働だった。逃亡者が大量に出るのだが、その理由は、その労働実態の酷さと、また初めからメキシコを経由地として米国に渡ろうとする人が多かったためだという。
 そして、移民に際しては、移民会社の関連の金融会社から、多額の借金をする仕組みが作られていたため、逃亡した移民たちの保証人になっていた沖縄の貧しい家族のもとには、会社が差し向けた借金取りが殺到し、差し押さえが頻発、大きな社会問題にもなった。徹底した搾取だが、「技能実習生」問題をみても、この日本社会の構造は今も変わっていないと思う。
 このくだりでは、移民会社(もちろん、政治家や官僚と結託している)の悪行を告発する「琉球新報」とサンフランシスコの邦字紙「新世界」との共闘が素晴らしい。

 

メキシコ・キューバでの流浪

 さて、山入端萬栄は、メキシコに炭鉱労働者として送り込まれるが、ほとんどの移民たちと同じく、逃亡して米国密入国を図るものの、果たせず、折から起きたメキシコ革命戦争(1910年から)に遭遇。
ウエルタ将軍の反革命軍の傭兵となって、各地の戦線を転戦し、何度か死の危機にも直面。1916年にキューバ渡航。そこでも無数の職場を転々とする。荒涼たる人生だ。
後年、当時の孤独と焦燥の心情を回顧した萬栄の手記の一節を引いたあと、上野英信はこう書いている。

「冒険主義者」山入端萬栄の痛ましい敗北宣言である。と同時に、断腸の棄民宣言でもある。彼はこれまで事あるごとに、「冒険家」をもって自負し、「生来ノ楽天主義」を誇ってきた。しかしもはやここには、その若い気負いの余燼もない。あるのはただ、祖国から棄てられた民の絶望的な孤独と焦燥の影のみである。そのくろぐろとした影は、彼がもはや帰国の意志も希望も喪失していることを物語っている。
 独り萬栄ばかりではない。それはまた彼と同じように若くして、しかも男性のみの労働移民集団として海外へ送られながら、ついに帰国の機会にもめぐまれず、故郷から妻を迎える機会もえられないまま、「野犬ノ如」く異郷を彷徨する男たちの運命そのものでもあろう。
 日本の海外移民史は、労働移民は棄民と同義語であることを教える。単身の労働移民が棄民化する率は、確かにもっとも高い。そして、棄民化の甚だしい所ほど、異民族との婚姻率も高い。不幸なことだが、わが国の移民に関するかぎり、異民族との婚姻率は、かならずしも人種差別の壁の高低を測る尺度とはならない。むしろ、棄民化の遅速を示すメーターである。(p334〜335)』

とはいえ、やがて萬栄は、キューバの首都ハバナのドイツ大使館で使用人として働くうち、同僚のドイツ人女性と、念願の結婚を果たし、娘も生まれ、いったんは小さな幸福を手に入れる(やがて、第二次大戦が起きると「二重の適性外国人」として収容所に入れられることになるのだが)。
しかし、萬栄の末妹で、本書のもう一人の主人公であるツル(元々、マツという名だったが、辻遊郭に売られ芸妓になって改名)にとっては、この国際結婚は、許せない裏切りとしか思えなかった。というのは、ツルにしてみれば、自分たち三人姉妹が、いずれも辻遊郭に売られながら家族を経済的に支えようとしてきたのは、ひとえに「眉屋」一族の血統を絶やさないための犠牲的行為だったからである(沖縄で、徴兵を逃れるために子どもを移民させることが多かったのも、この血統重視と無縁ではないようだ)。
はるかな外地での長男の国際結婚は、この「血統」への願い(もちろん、日本による植民地支配の過酷さと無縁ではあるまい)と、自分たちの犠牲を踏みにじるものとしか、当時のツルには考えられず、ずっと後年まで、彼女は兄を許せなかったという。

妹ツルの不屈の半生

ところで、海外で流転の人生を歩んだ兄と相似的に、この妹ツルは、日本国内を転々とする波乱の人生を送った。那覇の辻遊郭にはじまり、宮古島、和歌山(沖縄からの労働者が多かった)、大阪の四貫島(此花区)、神崎川の河原の集住地区、東京の下町、疎開先の千葉の山村、そしてまた東京、沖縄と、めまぐるしく移動していく。神崎川などは、僕の住んでいる場所に近いので、とくに興味深かった。そして、葬式など何かあると、しょっちゅう帰郷している。
移動というと、印象的なのは、国内に限らず、沖縄から海外に移民した人たちも、三年とか五年ぐらいの間隔で、ひんぱんに沖縄に行き来しているということだ。太平洋を船で渡ることの大変さを思うと、驚かされる。もちろん、これは事情が許せばということで、社会条件の厳しかったメキシコやキューバへの移民の場合には、難しかったようだ。
これは別の本で読んだのだが、どうしても沖縄の学校に通わせたいと、子どもだけを海外から帰国させる例も多かったらしい。そのため、「鉄血勤王隊」にとられて亡くなった子どもたちも居た。
他には、沖縄の人たちの、死者とのつながりの深さ(例えば、出稼ぎ先のヤマトで親族の誰かが亡くなったとき、その人が暮らしていた家の水道の水や、部屋のホコリも棺に詰めて沖縄に送ったりする。死者の霊は隅々にも宿ると考えられたかららしい)も印象的だった。   また(生者と死者の間だけでなく)「遊郭の内と外」とか「狂人や物乞いと一般社会」、それぞれの間に、近代的な境界が引かれていなかった、伝統社会の雰囲気も伝わってきた。


最後にもう一つ、遊郭で暮らした三姉妹をはじめ、沖縄の特に女性たちが、たくさんの養子を引き取って育てたことが、非常に印象深かった。
これは、上記の血統重視とは矛盾するみたいだが、困窮した同胞や身近な人たちの命を、少しでも救い、大事にしていこうという気持ちの表れとして、共通するものがあり、そのより本源的な形ではないかとも思う。
ツルも、彼女自身は、結局自分の子どもを持つことはなかったのが、何人かの養子を育てたり、兄弟の子どもたちの面倒を見た。
やはり子どもがなく、養子を育ててきた疎開先の住職の言葉を聞いて、自分のこれまでの人生も、少しは親への恩返しになっていたのだと気付いて、ツルが深く安堵するくだりは、とりわけ心に残った。