分断について・横田滋氏への書簡紹介

韓国に旅行して、飛行機の窓から大地を見下ろしていると、いつもひどく痛々しい感じを受ける。
あちこちで山が崩されていたり、森林が伐採されてゴルフ場だらけになっていたり、いたるところにビルや町並みが広がっていたりというのは、日本列島を電車の車窓や上空から見ていても感じることだが、上空から見たあの国の景観には、なにか別のものを感じる。


この感じは、飛行機から降りて国内を旅しているときにも、ずっとつきまとう。
たしかに庶民的であったり、田舎といっても開発されていたり、いなかったりする。都市の問題や環境破壊は、日本よりも深刻だと思ったり、それでもこの国の人は立ち向かって切り開いていくだろうと思うこともある。
だが、切り崩された山や、屋根の色もだいたい一様で平板な感じのするモルタル造りの住居や、舗装された田舎の道や、どこまでも広がっているソウルの町並みや、そういった目に映る全てが、たんに「発展」とか「繁栄」とか、あるいは環境の破壊とか貧富の格差とか、そういう一般的な範疇とは別に、ある固有な暗さや息が詰まるような悲惨な感じをぼくのなかに呼び起こし、目をそらせたくなるような重い気持ちにさせる。
ここには特別な不自然さ、「自然破壊」というより、「自然さの破壊」がある。
ぼくはそう思い、そのことを生々しく自分のなかに感じる。


それは、近現代の歴史のなかで、いくつもの暴力が繰り返しこの大地に襲いかかった結果生じた傷跡を目の当たりにしているような感覚なのだ。
ぼくはあの風景を、旅行者らしく「美しい」と形容する勇気をもてない。


この感覚は、植民地支配や、朝鮮戦争や、軍事政権下での急激な開発や、民主化以後むしろ激化した環境破壊と格差の拡大や、米軍基地の存在や、そうした歴史と現在の積み重なりに由来するものだといえるが、さらにあの土地には、より固有で直接的な「原因」が現在も存在していることを忘れることはできない。


そんなに広い国土ではない。
小さな国、小さくても開発された国、そしてそのことによって荒廃した自然は、世界中にあるだろう。だが、あの国の大地や風景に感じる「狭さ」や荒廃した感じには、なにか特別なものがある。
それはおそらく、具体的には、あの半島のまんなかに暴力的にひかれた分断の線から生じている「狭さ」や荒廃なのだ。それも、ただ分けられて半分の広さしかないからということではない。
暴力的・人工的に線を引かれ、そして引かれ続けている(つまり、暴力を受け続けている)という現在進行の事実から生じてくる、具体的な圧迫や荒廃。
「分断」と呼ばれる現実は、そういう生きている今現在の痛み、加え続けられている暴力にたいしてあげられる、人々と大地の悲鳴なのだ。


「どんな国境も人工的に引かれたものでしかない」と語ることは簡単だが、今ここで、現実に自分の体や心に暴力によって線を引かれ、癒されることのないまま、圧迫を受け苦しみ続ける人たちと大地の悲鳴の前では、その言葉は意味を持たない。


ぼくは、あの半島に生きるすべての人たち、そしてそこに血縁をもつすべての人たちが、それぞれあの傷の生々しい痛みを身に受け、歴史のなかで繰り返されてきた暴力がもたらす歪みやかげりを自分の生のなかに刻んで苦しんでいるに違いないと想像する。
その集約された傷口の巨大な形象を、韓国の大地の光景に見る思いがして、息苦しくなるのだろう。
全ての議論や批判はまず、この傷口をふさぐこと、そして分断の暴力を止めその傷を癒しはじめてからなされるべきだ。理念としての民主主義や人権も、人間の顔をした経済成長も、安定した対等な関係も、それから議論してくれ。傷はまだ、ふさがっていないのだから。そう思う。


もちろん、「分断」という、この今現在深まり続けている傷が、ほんとうはなにによってふさぐことが可能なのか、誰にもはっきり分からないだろう。
政府同士の和解によって、統一国家が形成されることが、ほんとうにその克服をもたらすのか、疑問や不安は大きい。
だがもっとも大事なのは、この今ある傷口が広がることを防ぎ、やがてそれが自然に閉じられて治癒するに任せようとする、朝鮮半島の人たちの努力を阻害してはならないということだ。
「分断」は、一刻も早く解消されなくてはならない。


そして、ぼくがかすかに思うことは、その傷口は違う形で、ぼくの身体のなかにも開いている、ということだ。
その形を、はっきりと言い表せないが、それは傷であることさえ見定めがたい姿で、ぼくの身体のどこかに閉じ込められてあるのだと思う。韓国の大地を傷つけたのと同じ、凶暴な現実の力によっておしひしがれながら。
この目に見えない傷口が発する悲鳴に耳を傾けながら、必ずしも空間のなかだけでなく「清算されない歴史」という形で時間のなかにも引かれている「分断」の線を消し去り、傷の治癒をもたらそうとする他者の努力に共感し連帯することは、自分たち自身が生きていくためにも避けてはならないことであると信じる。
有形無形の方法での歴史の清算と和解への努力とともに、南北朝鮮の「統一」は、ぼく自身の願いでもある。


近代に入ってからの歳月において、日本列島と朝鮮半島を含むこの地域に生きる全ての人々は、重苦しいひとつの歴史、ひとつの現実を生きてきたのだと思う。
それぞれの位置や「歴史観」が異なったとしても、身体の次元では、あの人たちとわれわれが「別の現実」を生きたはずはない。
いやむしろ、その経験こそ、ぼくたちみなの身体だ。
あの土地には、ぼくやぼくの親や祖父母の半身が生きている。そして、自分のなかの封印された傷が、海の向こうからの呼びかけに応じて、生々しい叫びを発するときを待っている。
嘆きや怒りや、恨みや悲しみの叫びが、そして涙が、その身体と魂を救うのだ。

韓国の国会議員の書簡


以下に、先月16日、韓国のサイト「統一ニュース」が報じた記事を、要約し翻訳して紹介する。
http://www.tongilnews.com/article.asp?menuid=101000&articleid=65001


これは、この時期に訪韓していた横田滋さんに、韓国のある国会議員が手渡そうとした書簡の内容を掲載・紹介したもので、ぼくはこの記事のことを先日友人から教えられて読み、感銘を受けた。
記事では、内容がひとあたり要約された後、書簡の全文が紹介されている。
ぼくはこの書簡に書かれた歴史と現在についての認識に深く同意する。
だがそれ以上に、ぼくはこの手紙を、かつて傷を受け、いまも深まる傷に苦しみ続けている韓国の人たちから、歴史のなかで同じく癒しようもない深い傷を受けた一人の日本人への、深いいたわりの言葉であり、ほんとうの魂の救いのための励ましと呼びかけの言葉として読んだ。


しかしまた、自分が置かれている苦境や悲劇の実像を、他者の苦痛への思いやりと、それを通した歴史への認識のなかに求めることのなかにしか、魂がほんとうに救われる道はないという言葉は、むしろわれわれ一人一人に向けられていると、とらえるべきではないだろうか。




(以下、記事翻訳)


    キム・ウォンウン、訪韓した「めぐみさんの父親」に書簡
     強制徴用者、慰安婦、遺族たちに会ってみて


     統一ニュース イ・クァンギル記者


開かれたウリ党のキム・ウォンウン議員は 16日、 金英男さんの家族に会うため訪韓した 横田めぐみさんの父親、 横田滋さんに書簡を送り、『訪韓中に、日帝の時代に強制動員された朝鮮人徴用者、従軍慰安婦とその遺族たちとも一度会ってみてください』と勧めた。

また、『この人たちと会って抱き締めあい、ともに大声をあげて泣くことが、あなたが愛するめぐみさんの魂を本当になぐさめる事になるのではないか』と問い返し、『この人たちとお会いになれるように私が誠意をもって取り持つ意志がある』と伝えた。


(中略)


韓日間の苦しい過去に対する認識を土台として、 キム議員は滋さんに、「易地思之」(立場を置き換え、相手の身になって思ってみること)を、心をこめて頼んだ。 『韓国国民がめぐみさんに関心を持つことを願うように、日帝によって強制連行された数十万の「朝鮮人めぐみさん」の家族たちも、日本国民がこの人たちに関心を持つことを願う』ということだ。
(後略)




             キム・ウォンウン議員書簡


横田滋先生へ


お元気ですか?


あなたの娘さんと家庭を襲った不幸について、深い哀痛の意を表します。
日本人拉致被害者めぐみさんのお父さんであるあなたが、 娘さんの夫であるとわかった一韓国人に会うために我が国へ来たという知らせを、マスコミ報道を通じて耳にしました。 娘さんの不運な生に対するいたわしい父情が、私の胸までも切り刻むようです。


めぐみさんは、北韓当局によって拉致されたと判明しています。 同時に彼女は、戦後冷戦体制の犠牲者です。 20世紀の冷戦対立の中で、南と北はお互いに数千名ずつの工作員を南派し、北派しながら、数多くの拉致をほしいままにしました。 これらの拉致被害者たちは、結局冷戦体制の犠牲者たちです。そのなかの一人が、まさにあなたの娘、めぐみさんであると言えるでしょう。めぐみさんの魂をなぐさめることは、この冷戦体制の解体から出発しなければなりません。 ところが、この不道徳な冷戦体制を支えて自分たちの利益を追い求めながら、めぐみさんの人権を論じることは良心を欺くことです。


今も維持されている南北分断の現実は、まだ北東アジア地域に冷戦の残滓が存在していることを見せてくれています。 ところで、国際社会において韓半島の分断克服と平和体制構築に非協調的な国家として知られる国が、まさにあなたとめぐみさんの祖国、 日本であるというのはもどかしい事です。


人権問題は、人類文明が追い求めなければならない普遍的価値です。 しかし、日本社会は一方に偏った人権意識をもっているという印象を与えています。 自分たちの問題は棚上にしておいて、他の国の人権問題ばかり熱心に見ようとする偏狭な雰囲気が日本社会を支配しているという指摘も、的外れではないでしょう。


20世紀、日帝によって強制動員された数百万の朝鮮人のうち、相当数がまだ戻ることができません. 彼らがどこに連れて行かれて、 どんな仕事を強制され、 どのようになったのか、まだ生死さえ確認されていないのです。


韓国には、まだ数十万の 「めぐみさん」がいます。 甚だしくは、「朝鮮人 めぐみさん」たちの中には、靖国神社に奉安されて、 死んだ魂さえまだ日帝の強制連行から解き放たれることができずにいます。


あなたは、韓国国民が拉北被害者に対して関心を持ってくれという訴えをしました。 あなたの訴えは当然です。 韓国国民たちが、もっと大きな関心を持つべきだということに反対するつもりではありません。 しかし、あなたの娘に親がいるように、「朝鮮人めぐみさん」たちにも、愛する家族たちがいます。 あなたが、韓国国民たちがめぐみさんに関心を持つことを願うように、日帝によって強制連行された数十万の「朝鮮人めぐみさん」の家族たちも、日本国民がこの人たちに関心を持つことを願っています。


滋先生は、自分の家族が大事なだけ、隣人の家族も大事であるということを、よくご存知であると信じます。人の尊重と愛を言葉にすることはたやすいことです。 しかし、胸から湧き出る真情を見せてくれることは易しくありません。


滋先生!
先生にお勧めします。 もし時間がお作りになれれば、 今回の訪韓中に、日帝の時代に強制動員された朝鮮人徴用者、従軍慰安婦とその遺族たちとも一度会ってみられてはいかがでしょうか? この人たちと会って抱き締めあい、ともに大声をあげて泣くことが、あなたが愛するめぐみさんの魂を本当になぐさめる事になるのではないでしょうか?この人たちとお会いになれるように私が誠意をもってとりもつ意志があります。


私の手紙が滋先生に伝達されるように、在韓日本大使殿にお願い致しました。滋先生の今回の訪韓が意味ある日程となるように願っております。


2006. 5.16
大韓民国国会倫理特別委員長
キム・ウォンウン 拝


(翻訳ここまで)