分かるということ

他人のことが分かるという場合に、自分の経験や心理から想像して、つまり相手と自分を同一性においてとらえて「分かる」という意味と、他人と自分との差異を「分かる」という意味との、二つがある。


前者の意味で分かったとき、相手と自分との差異は消えてしまう。言い換えると、相手の生や経験は、自分の経験の中に呑み込まれてしまう。他人のことが分かったというのは、結局自分自身を分かったということに過ぎないのではないか、という疑問が生まれる。
一方、後者の「分かる」は、難しい。他人の経験が根本的には想像不可能であることを認識するということだが、そのためには前者の意味での分かろうとする努力、つまり自分の体験を拠り所(参照)にしながら相手の経験や心理を想像する努力が、まず必要ではないかと思う。その努力の挫折によってだけ、差異を分かるという意味で、ぼくたちは他人のことを分かることができるだろう。


一番厄介なのは、そういうことに対して繊細なのは、いつも重い抑圧を受けている人の側だということだ。他人との差異を尊重せよ、という言説によって倫理的になるのは、いつも弱い人たちの側だ。そうした繊細さへの要請が、抑圧する側、特権を持っている側の立場の強化に役立たないことは稀である。