朝鮮民主主義人民共和国について考える

この国のことについて考えようとすると、自分と国というものとの関わりを問い直さざるをえなくなる。
それは、自分が住む日本という国と、朝鮮という国とでは、同じ「国」とは言っても、その成り立ちが、少なくとも成り立ちの説明のされ方が、また説明に対する納得のされ方がまったく違うように思えるからだ。
それは、「国」という虚構性(フィクション)のあり方についての問題といえばいいか。


まずはじめに一番大事なことを確認しておくと、その人の国籍、またどこの国民や公民であるかということと、その国の政府の政策にどういう考え方をもっているかということは、もちろん別の問題である。
たとえばぼくは制度上は日本国民だが、現在の日本政府の政策には同意できない点が多い。また、これは厳密に言うといわゆる「国籍」ではないが、ぼくの友人・知人には「朝鮮籍」の人が少なからずいるけれども、朝鮮の政府に対する考え方や感情は、もちろんさまざまである。
はじめからはっきりレイシズム的な意図をもって発言や行動をする者でない限り、こんなことは自明だと思えるが、実際には社会運動をしている人でも(している人ほど?)分からなくなってしまうことがしばしばあるらしい。


だが、ぼくがこれから書こうとしていることは、そういう次元のことではなく、ある制度や社会のなかで否応なく人の感情や考え方に刻み込まれる「国」という虚構のさまざまな性質に関することである。
それは全面的に規定するものではないが、一定程度の要素としては、その制度や社会のなかで生まれ育った人のなかに入り込んでしまうものであると思う。少なくともぼく自身は、自己のなか、それも中心に近いところにそういうものを感じている。
これはとりわけ、本国でマジョリティー(国民)として育った人間には、強固に働いている力だと思う。ここでは、それについて書きたいのである。


朝鮮という国は、日本による支配から独立して国を作った。金日成という人の出自については、現在ではいろいろなことが言われているが、朝鮮の人たちにとっては、この人の存在はたしかに周囲の大きな国々、とくに朝鮮戦争をたたかって半島の南半分を支配したアメリカや、かつての宗主国で戦後そのアメリカの同盟国となった日本などに対する独立と抵抗の象徴のように映っただろう。
朝鮮においては、人々のなかで「国」というものは、そういうものとして存在してきた。
つまり、自分たちの独立や抵抗、そして根本的な条件としての「自由」を表わすものが、すなわち「国」だった。
独立した生も、自由な生も、その歴史のなかでは「国」の存在があってはじめて成り立つものと考えられたから、国を守ること、それに献身することが生活の第一義とされた。
これは、ぼくには想像しがたいことである。


日本は、他国の植民地になった経験をもたない。
第二次大戦は、大国同士の戦争で、要するに支配権の奪い合いだった。連合国に敗れたことで、日本はその支配権をすっかり失うかに見えたが、アメリカの勢力の下に属することで、その支配力と豊かさと安定を「条件付きで」維持するという選択をした。
その屈折した形での支配の継続のなかで、ぼくは生まれ、自己として育ち、生きてきたわけだ。
そこでは、「国」の存在は、むしろ「自由」の対立物のように感じられた。だが実際には、この「自由」は、まさに「国」の存在によって、そしてそれに都合のいいような形に生み出されていたのかもしれない。
ぼくたちは、「国」の虚構性を意識することはあっても、そういう意識をもちうる「自由」や「個人」の虚構性について意識することを知らなかった。


「国」の虚構性を意識できない不自由と、「個人」の虚構性を意識できない不自由との間に、なにか本質的な差はあるだろうか。
ほんとうの自由は、そういう差異とは関係がないのではないか。
日本というこの国は、いまある意味で、世界のどの国よりも不自由ではないか。


こういう問いを持ったうえで、朝鮮という隣国の歴史について、少し考えてみる。
現在は、非難や攻撃的な言辞が支配的であるので、ここではあえてその良いところを考えようとするのである。
ぼくは朝鮮に行ったことはまだないし、なんといってもよその国であるので、日本と比較してどうこうとは言いたくない。
ただ、客観的にみて、立派だと思う点はある。
ひとつは、独立ということにこだわり続けてきたこと。
アメリカに基地を提供し、その力の下で同盟国になる道を選んだ日本や韓国とは異なり、朝鮮は冷戦下においてもソ連や中国から独立的な位置を保とうと努力してきた。アメリカに対しては、言うまでもないだろう。その手法はどうあれ、「独立性」という点では非常に高く評価できる。


そしてもうひとつは、よその国や地域を踏み台にせずに来たということである。
日本の場合、戦前のことはここでは言わないにしても、戦後たとえば戦争であれだけ甚大な被害を強いた沖縄に、米軍基地をおしつけてきた。そこを拠点としたアメリカのアジア諸国への軍事力の行使に協力することで、日本は繁栄と安定を得てきたのだともいえる。
また韓国の場合には、ベトナム戦争への参戦というはっきりした事例がある。そこでおこなわれた「良民虐殺」については、韓国人自身が明らかにしてきている。
こうした他者への暴力や収奪と引き換えに、日本や韓国はその富と地位を得てきたわけだが、朝鮮の場合、そういうことはしていない。
もちろん、「拉致」や「ラングーン事件」、「大韓航空機事件」のような国家的な犯罪をおこなってきたのも事実だが、上記のような大規模な暴力や収奪は、たしかに(少なくとも)国外においては行っていない。
このことは、忘れるべきでないと思う。
それは、この国がとくに優れていたというよりも、われわれがそうできなかった、そのように生きてこれなかったのはなぜなのか、考えるべきだと思うからだ。


とはいっても、今日この国の政権が、そうした理想や理念を体現しているかどうかは疑わしい。その疑念の一端については、きのう書いたとおりだ。
そして、どのぐらいの数の国民によって、この国のあり方が信じられ支持されているのかも、正直なところ分からない。
だが一番大事なことは、「国」というフィクションは、そこに生きている、あるいは縁をもつ、それぞれの人間がよりよく生きるためにだけ存在するということだ。
どういうフィクションが、そしてどういう人間の生き方が「よりよい」のか、他人に決めることはできない。
決めようとすれば、アメリカのようなやり方になる。「実験」ではなく、ほんもののミサイル攻撃によって実現されると称される「解放」や「人権」や「民主主義」。


だからその人たち自身の、決定を尊重する他ないと、ぼくは考える。
ぼくたちがするべきことは、その場所に自分とは異なる種類のフィクションを生きている人たちがいることを意識すること、まずそれではないだろうか。
そしてそれを通して、自分たちが生きている現実のあり方に近づいていくことだと思う。