「頑張れ朝鮮学校!コンサート」in同志社

この記事は、ほんとに5月15日に書いてます。


14日日曜日、京都の同志社大学でおこなわれた「がんばれ!京都朝鮮第三初級学校−フレンドシップコンサート in 同志社」というイベントに行ってきた。
実は、この「京都朝鮮第三初級学校」という学校の卒業生が、ぼくの友だちに何人か(一人か?)いる。それもあって出かけたんだけど、行ってみて分かったのは、この催しは、以前にこのブログでも講演の様子を報告した同大学教員の板垣竜太さんが中心になり、それに朝鮮学校に通っている子どもたちの保護者の人たちや、在日と日本人の大学生などが協力して企画・実行されたものであるということだ。
板垣さんは、実行委員長として、壇上での挨拶だけでなく、映画の上映会場への呼び込みとかもやっておられて、忙しそうに動き回っていた。若いのに立派だなあ、と思った。

朝鮮学校の現状

日本各地にある朝鮮学校は、今いずれも苦しい状況にある。財政の面では、日本の教育制度のなかで「各種学校」という扱いになっているため補助金が極端に少ないうえ、児童数の減少とか、学校運営を経済面で支えてきた在日社会の不景気の影響などが重なっているからだという。
だいたい、補助金がすごく少ないということは、何から何まで費用を保護者やOBなどからの寄付金でまかなわなければいけない。だから、保護者にとってはすごく経済的負担が大きいのだ。校舎が老朽化しても直すお金がなかったりする。初級学校や中級学校では、もともとプールも体育館もないのだ。その上に上記のような悪条件が重なってなおさら苦しくなってるわけである。
そしてもちろん、もともとある差別にくわえて、近年の朝鮮学校、ひいては在日の人たち全体へのバッシング(圧迫・攻撃)という過酷な現実の影響がある。
京都でもこうした事情はもちろん同じで、この第三初級学校というところは、そのなかでもとくに財政面が厳しく、先生の給料が何ヶ月も滞ったりしてる現状だそうである。
この催しは、こうした状況下にある同校を支えるとともに、こうした問題を考えてもらうきっかけになるイベントをつくろう、ということで企画されたものだそうだ。

コンサートの概要と感想

コンサートでははじめに、この「京都朝鮮第三初級学校」に取材したドキュメンタリー・フィルム『チェサミ!』という作品が上映された。これは板垣さんとつながりのある大学生の人たちが製作に関わったものだそうで、上映のあと、その若者たちが壇上でコメントを述べた。
じつはぼくは少し遅れていったために、後半部分しか見られなかったのだが、この学校をみつめる優しい眼差しがスクリーンから伝わってくるように感じられた。よかったのは、終了後の若者たちと板垣さんのコメントで、それぞれ微妙に立場の異なる若者たちが徹夜で話し合いを重ねて作品を作っていった様子が、実感をこめて語られていた。


その後は三部構成で、歌や踊りなどが披露された。
ぼくは、いろんなところの朝鮮学校やその関連のこうしたイベントには、結構行ってるほうだと思うが、今回はそれらとは趣をことにする趣向のコンサートだった。
というのは、朝鮮学校の子どもたちや卒業生などの踊りや歌や演奏ばかりでなく、日本や世界各国・各地のさまざまな音楽などが演じられたからだ。
「多文化」的なのをどうかと思う人もあるかもしれないが、これはこれでぼくには楽しかった。
そのなかでとくに印象深かったのは、日本の女子大生二人が演奏して歌ったアイルランド民族音楽と、「グルーポ・アイコイリス」という集団によるフラメンコの舞台だった。
アイリッシュの曲というのははじめてちゃんと聞いたが、しなやかで素晴らしい音楽だと思った。すごい抑圧と抵抗の歴史のあるところだから(朝鮮もそうだが)、ああいう音楽が生まれるんじゃないかな。
フラメンコも、本格的なのをまじかで見るのは初めて。これは凄かった。見ていて思ったのは、これは何より「女の人の芸術」だということだ。つまり、「なに人」ということとはまた別のマイノリティー性、言い換えれば「対象化される存在」であり続けた集団が、その「対象化される(見られる)」ということを逆手にとって迫ってくる表現の凄みがあり、ぼくなどはそれに圧倒されてしまうのだ。
フラメンコ、畏るべし。


とは言っても、このコンサート全体の山場はやはり最後の第三部。
朝鮮学校の子どもたちが置かれた現状についての真摯なナレーションの後、朝鮮学校が歩んできた道と現在を伝えるモノクロやカラーのフィルムが映し出されるのをバックに、朝鮮語による女性コーラスが歌われるパートはすごくよかった。
それから、若い女性のボーカリストと伴奏のピアノを弾く朝鮮学校の女性の先生、この二人は元師弟なのだそうだが、これが素晴らしかった。最初に『Fly to the moon』という英語のポピュラー・ソングをやり、つぎにこの日は「母の日」だったことにちなんで『ありがとう』という日本語のオリジナル曲(一箇所だけ、カムサハムニダ、と朝鮮語が入る)、そして最後に独自に構成された『イムジン河』が歌われるのだが、そのどれもがよかった。
それで最後の方に来て、子どものお父さんとか男の先生たちが横一列に並んで、『クナリオミョン(その日が来れば)』という歌を合唱した。これは、韓国で有名な歌手たちが結集してこの歌を歌ったということがあったそうで、よく知らないけど、統一に関する歌なのかなあ?
それで、その最後で子どもたちがばーっと入ってきてお父さんたちの前に集まるという演出で、サビが歌い上げられる。そのときに、女の人というのは、両脇に控えるみたいな感じで立ってて、ぼく自身はどうもこういう絵柄が好きじゃないんだけど、この人たちが置かれている現実の状況を考えれば、すごく強いメッセージがこめられてることが分かるし、見てた人の多くは感動しただろうなあ、と思う。やっぱりこのコンサートのハイライトのひとつでした。
その前に在日や日本の若者たちによるサムルノリの合同演奏があって、ぼくのよく知ってる若い子も熱演してたんだが、これはまあ会ったときにでも直接誉めておこう。
ともかく、長丁場のコンサートだったが、非常に中身のあるものだったと思う。
関係者の皆さんはお疲れ様でした。

所感

最後に少し所感を書いておくと、朝鮮学校の人たちが置かれている苦境は、ぼくたち自身の問題でもあると思う。だからこれからも自分なりにこの人たちのためになることをしたい、ということである。
よく朝鮮学校を擁護する人たちのなかでも、「教育や文化の問題なのに、政治が持ちこまれるのはおかしい」といった言い方がされるのを聞くが、ぼくは、朝鮮学校が陥っている苦境というのは、完全に「政治的な問題」だと思う。
その意味は、日本の政治や行政・社会・国民が、在日朝鮮人とその社会に対して何をしてきたか、今現実にどういうことをしているか、そしてこれからどうするつもりなのかが、ここでは問われているのだ、ということだ。これが、政治や社会の問題でなくてなんだろう。
これまでも、そして現在はいっそうあからさまに、日本の社会はこれらの人たちを「社会」という枠の外に置いて、差別したり攻撃したりしてきた。もともと日本が植民地として支配していた人たちの子孫を、一度も手厚く扱うことなく邪険にし、苦しめ続けてきたのである。
この過去と現在の事実にどう「落とし前」をつけるかということが、ぼくたち一人一人に問われている。それは、これが「他人(隣人)を助ける」ということ以上に、自分自身の過去や現在をどう引き受けて、未来を自分で切り開いていくかというテーマであるということを意味する。
この現実にきちんと向き合わないままで、自分たちにとって生きやすい社会を作ることはできない。それ以前に、自分が自分として生きる出発点には立てない。
朝鮮学校の問題は、そこを通らなければぼくたちが「市民」にも「個人」にもなれないような、重い課題のひとつなのだと思う。