『ブロークバック・マウンテン』

『ブッデンブローク・マウンテン』と覚えてたら、「ブロークバック」だった。なんで、こんな思い違いをしたのか。たぶん、「ベニスに死す」+「魔の山」ということだろうな。トーマス・マンは、そんなに読んでないんやけど。


正直言って、イニスの奥さんは気の毒だ。
でも、派手に見えるジャックの奥さんの方にはあんまり同情しない自分もなんだかなあ・・。
イニスとジャックの二人は、性的な欲望の質も性格も(この二つは区分けできないだろうが)、非常に違っている。どういう社会で出会っていても、この二人の関係は、性愛という形をとってもとらなくても、うまく行かなかったんじゃないか、と思う。
そういう感想を持ったということは、この映画が基本的に恋愛映画だったということだろう。それでいいんだけど、ちょっとやっぱり不満がある。


どちらかいうと、イニスの方が屈折が激しく、追い込まれて消耗しているように見える。だがそれも、表面的にそう見えるというだけだが。
イニスの抑圧された感情は、暴発してDVとかになりそうな雰囲気があり、妻はそれを感じて脅える。
しかし、ここで大事なことは、抑圧された人がそうなりやすいということではなくて、そういう抑圧の仕方をする社会の方が暴力的な性質を持ってるということだと思う。
抑圧を受けた人は必ず過剰なものを抱え込むはずで、それがなんらかの意味で他人には暴力的である場合があるだろう。それが「許されない」ものである場合(したがって免罪されえない場合)はもちろんあるが、その暴力の根源が社会にあることは間違いない。
この映画の描き方は、そこまで届いてなくて、むしろその社会の暴力に加担してる(きつい言い方だけど)と言えるのでは、と思う。


そのある種の社会悪を、イニスとジャックの関係は、やはり帯びている部分があるのだ。
この二人の「秘められた」性愛は、特権者のエゴイズムみたいな側面が、やはりある。
性愛だから、エゴイズムを批判するつもりはないけど、そこへ突っ走るわけでもなく、都合のいい「男の美学」みたいなのがやっぱり鼻につく。


別の切り口で書くと、イニスとジャックの相互理解は最後まで実現してないのに、結局死者の「我有化」によって対立(相互の溝)が隠蔽・解消されて終わり、ということになってる。
あの渓谷の別天地が生き残った者の心のなかに取り戻されることで回復され、ギザギザした性愛の世界が打ち消されて、美しい「友情」の物語として完結してしまう。


ところで、あの渓谷では羊が飼われていた。前半部で熊に襲われたのか、内蔵がむき出しになった羊の死骸がすごく印象に残ったのだが、あれは「犠牲」ということだと思う。
ジャックの死は、物語と社会の秩序を完結させるための「犠牲」だったのではないか。
「犠牲」によって完結してしまう性愛の物語というのは、ぼくは嫌です。
でも、そこまで考えて撮ってるとしたら、一応ちゃんとした作りにはなってるのかなあ?


監督が台湾出身の人であることとか、原作者が女性だということとか、色々考え合わせると別の見方ができるのかもしれないが、どうもイマイチ入りこめない映画だった。
まあ、もともと恋愛というのがよく分からないんだけど。
マディソン郡の橋』とかが好きな人ならいいかも。


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