セクハラ・性行為の五つの意味

すでに多くの方がご存知のサイトだと思うのだが、どうしても紹介しておきたいので、一部を引用しながら感想を書くことにした。


『Fuckin' backlash』


このサイトの存在も、前回の記事と同じく『成城トランスカレッジ!』さんを通じて知った。
セクシャル・ハラスメントなどの性被害をテーマにした非常に優れたサイトだが、ぼくがこのサイトを見て思ったことは、「俺、セクハラしまくってるやん!」てことだ。
これまで生きてきたなかで、それに該当する行為をずっと重ねてきたと思う。具体的には、ここでは書きにくいが。
そのことに気がついたのもショックだったが、いままでそのことにまったく気がついていなかったことのほうが、ある意味もっとショックだ。
世の中には、ぼくのような人や、逆の立場でやはり気がついていない人というのが、いっぱいいるんだろう。


このサイトは、まだ記事の数が限られているので、全部読むことが可能だし、特に「プロローグ」「ミッション」というところから、ぜひ読んでもらいたい。
勇気づけられる人は少なくないと思う。
それから、「LESSON1 ハラスメントの定義」という記事には、「ハラスメント」とか「ハラス」という英単語について説明されていて、ぼくはこれを読んで自分がハラスメントをずっとしてきたということに気がついた。


さてここでは、『成城トランスカレッジ!』で紹介されていた、「LESSON5」の河野和代さんという人(フェミニストカウンセラー)へのインタビューについて、特に印象深かったところをあげていきたい。
まずこのやりとり。

YUKO:
つまり、たとえば上司と部下の関係である場合、上司から部下が何か言われてもなかなか断れないということは性的なこと以外でも多いですし、何を合意ととって、何を合意ととらないかは、加害者と被害者の間で大きな差があるということですよね。
河野:
うん、その通り。
河野:
セクハラの概念が導入されて大きく変化したのは、そこでしょうね。その場合に力の弱い方、地位が低い方、男性と女性であれば女性の方の意見を大事にしなければいけません


つまりやってる方は、なんらかの意味で力関係で上位にあるから、そういう行為(ハラスメント)が出来るわけだけど、上位にあるからこそ自分が「合意を相手に強制している」という事実に気がつかない。問題化してから「合意が成立してたよ」と言ったりするわけだけど、相手がその「合意」を自由意志によってなしたと考えているかどうかは分からないわけで、その判断はハラスメントを受けたとされる側(つまり、立場の弱い側)の意見を尊重してなされるべきである、と。
これは、社会的に立場の強い側は、自分の立場からくる権力性に無自覚になり、自分が抑圧を加えている他者の「内心の声」のようなものを聞けなくなることから生じる事態といえるだろう。
やっている方が気がつかない「差別的」といえるようなことの構造は、すべてこういうふうになってるんじゃないだろうか。
次に、この発言。

河野:
もともと性行為そのものに、働きというか、意味の違いのようなものがあり、ほぼ五つの意味に分けることができるのですね。それが、生殖の性、快楽の性、親密さの性、暴力・支配の性、経済行為の性です。


これも、目からウロコだった。
ぼく自身についていうと、この五つのうち、「親密さの性」というものに対する感覚が欠落していると思う。それが、自分がしばしばセクハラ的になってしまう原因だろう(的、と書いたのは、たまたままだ法的に問題化したことがないから。)。
一般的にいって、うえの五つの意味のうち、「快楽の性」が「親密さの性」と深く結びつくととらえるか、それとも「暴力・支配の性」と深く結びつくととらえるかによって、自分や他人の性行為に対する、また快楽に対する捉え方は大きく異なってくると思う。
人間の暴力性や支配欲をどう考えるべきかという複雑な問題があるので、こうスッパリ割り切れないところだろうが、ひとつの枠組みとしてはそういえるだろう。
ぼくの場合は、性とその快楽を、暴力や支配(つまり、権力性)というものと強く結びつけてしまうので、自分や他人の性行為や性的な人間関係というもの対して、排除的・抑圧的にしかとらえられない、という面があるのだと思う。
「親密さの性」が理解できない人は、性についてのフォビアを持ちやすくなる。つまり、そうしたことに対して差別的・抑圧的・排除的になる。「親密さ」の感覚の欠如が、性に関して、全体主義的という意味でのファッショ的なものを引き寄せる。
そのようにいえるのではないかと思う。
また、

河野:
性行為については、一回ヤったらいつもヤっていいというのは大間違いです。


そりゃそうだよなあ。
でも、絶対そこが分からなくなると思う、自分の場合も。
あと、『個人の道徳感覚を全ての人に押しつけてはいけない』ということで、『セクハラ禁止は不倫禁止ではない』というのも、重要なポイントだと思う。どんな形であれ、自分の価値観や趣味で他人を抑圧するのはよくない。
次はちょっと長い引用になるが、重要な点。

YUKO:
加害者にならないための対策と被害者にならないための対策を教えていただけませんか?河野:
加害者にならないため、これは結構難しいですね。加害者になりそうな人は、やっぱりどこかで失敗するし、それが少しずつ明らかになりつつあります。セクハラ加害は、DV加害と同じで性的な衝動が動機ではなくて、支配とコントロールの問題だと思っています。自分の弱さやフラストレーションが動機で、誰かを自由にする、思い通りにすることによって自分の強さや男らしさを補償せざるを得ない人が加害者には圧倒的に多いのです。
YUKO :
精神的に弱いヒトが多いですよね、性加害者には。
河野 :
だからこそ、普段から自分がどのように人から思われているのかに敏感で、相手が何を感じているのかに気持ちをちゃんと向けられるような、コミュニケーションスキルが必要です。そして、もしもセクハラだと誰かから言われた時には、素直に謝れること、認められること、そして自分が変われること。これをできない人が、最高裁の被告席で「セクハラではありません」などとやっています。


たしかにセクハラというのは『支配とコントロールの問題』であり、『強さや男らしさ』ということが潜在的な強迫観念のようになっていることに、大きな原因があるのだと思う。支配とか権力ということが、性的な人間関係のなかであまりにも大きな比重をしめてしまうのだ。
この加害者の精神的な弱さは、当人が社会からの悪い影響(男性中心的な価値観)に対して抵抗できていないことに関係しているのだろう。
ぼくの場合、そういう価値観からはほとんど逃れていると思ってたが、よく考えると大間違いだった。こういう人間が、この価値観と結びついた経済や政治の仕組みと思想に対して、根本的な批判が出来るだろうか。
この根は、ものすごく深いのだ。


『相手が何を感じているのかに気持ちをちゃんと向けられるような、コミュニケーションスキル』、たぶん、これが一番大事なんだろうなあ。
セクハラは、弱者に対する迫害の事象だから、社会のなかでは「法/権利」によって被害者を守っていくしかないわけだが、根本的には人間と人間との、性という局面における気持ちの向き合い方の問題だろう。
たとえ法的に罰せられることがなくても、目の前の他人ときちんと対等な(権力的に)視線で向き合う努力をしていかないと、生と人間関係の不毛さからいつまでも抜け出せないことになる。
これは、性的な関係に限った話ではないはずだ。