恐るべき和解

以下は、オバマの広島でのスピーチの翌日の毎日新聞の朝刊一面に載った特別社説だ。
これを読んだとき、あまりの酷い内容に即座に批判記事を書こうと思ったのだが、その時はネットでは見つけられなかった。
http://mainichi.jp/articles/20160528/ddm/001/030/126000c


日米両国の「真の和解」が必要だとあるが、この両国は戦後一貫して強固な同盟関係を結んできた。
それは、双方の加害行為についての責任、とりわけ日本のアジア諸国に対するそれと、米国の被爆者及び無差別爆撃の被害者に対してのそれとに目をつぶることによって成立した欺瞞的な同盟だ。
米国は国益のために、日本の植民地主義的な国家の体質の温存を許し、日本はまた自国の利益のために被爆(被曝)等に関する米国の重大な責任の隠蔽に手を貸したのである。そして、日本政府の戦後補償に対する姿勢をみれば、日本の米国への協力は、過去についての国家の(人民に対する)責任を一切免れたいという、この国の国是のようなものに合致したものでもあることがわかる。
ともかく、この同盟関係は、自分たちが行った虐殺行為の責任を否認しようという両国政府の暗黙の「合意」にもとづいているのだ。
真の「和解」によって解かれるべき「屈折した感情」を持つ人が居るとすれば、それは、この同盟関係の維持のために圧迫され、沈黙を強いられてきた被害者たち以外にはないであろう。
ところが、ここで述べられていることは、この欺瞞的な関係を、より強固なものにせよということであり、つまりは抑圧と暴力の体制を永続化しようという主張だ。


オバマが広島に来て謝罪をしなかったのは、謝罪をすることが米国にとってだけでなく、日本政府にとっても都合の悪いことだからだ。米国が自らの罪に向き合うなら、日本もまたアジアの人々に対して(さらには国内の戦争被害者に対しても)、同様のことをしなければならなくなるだろう。
だからオバマには、あのスピーチに示されたような非主体的な態度の表明にとどめてもらわねばならなかった。そのことはもちろん、米国側の利益にも一致したのだ。
このような「和解」の論理によって、地域の秩序を再編し支配していくことが、米日両国の共通の思惑であって、そうしたイデオロギーを代弁している代表的な一人が、この記事に引かれている朴裕河氏だということは、今更言うまでもないだろう。
恐らくシナリオ通りに、この同じ論理で、韓日両国政府の間にも同じ欺瞞的な「和解」のストーリーが推し進められようとしているのである。
http://mainichi.jp/articles/20160601/ddm/005/070/043000c

http://japan.hani.co.kr/arti/opinion/24291.html

http://japan.hani.co.kr/arti/politics/24289.html




それにしても、

20世紀の歴史の中で、日本は被害者でもあり、加害者でもあった。度量と寛容。慎みと勇気。これらはすべて、あらゆる国と国の和解の、前提となる要素である。

とは、まったくよく言えたものだ。
この論説は、安倍政権と日本国家のエセ論理の、大新聞記者による代弁と考えていいだろう。
実際には加害者であることは一度もまともには認めず、自分たちが抑圧を加えてきた(そして元をただせば、自分らが引き起こした戦争の被害者だともいえる)本当の被害者たちをダシのように使って、国家が被害者面をする。
欺瞞的な同盟の相手国との間に「和解」の必要があるかのように話をでっち上げ、国家の被害者である人びとの救済のための枠組みを、国家間の「和解」の物語にすり替えてしまう。
被害者に苦渋を強いる側に立ちながら、『被爆者の多くがあえて謝罪を求めなかったことの重さを、誰もがかみしめるべきではないか。』とは、盗人猛々しいにもほどがあるというものだ。
そして、この「被害者」になりおおせた加害国家は、自らの醜悪な過去の犯罪行為の被害者であるアジア(そこには沖縄も含まれる)の民衆に向って、いまや「品位ある」「寛容な」被害者のあるべき姿を高みから教え諭し始めているわけだ。
相変わらず声高に謝罪を求めるような者たちは、品位に欠けた二級の人種だと言いたいのであろう。
これほど人間を愚弄した、恐ろしい倒錯もまたとあるまい。
実際、このような、自らの罪の否認の願望にもとづいた、被抑圧者に対する道義的な貶めこそ、多くの虐殺や非人道的行為の駆動力となったことを、歴史は示している。
私がもっとも恐れるのは、そのことである。