『快楽の脳科学』

快楽の脳科学~「いい気持ち」はどこから生まれるか (NHKブックス)

快楽の脳科学~「いい気持ち」はどこから生まれるか (NHKブックス)

本書の序章などによると、近年まで脳科学の分野では、論理的思考などの「高次」とみなされる作業を行う「知能の脳」とよばれる部分に関心が集中し、「感情」がテーマとして研究されることは少なかったそうだ。
この本は、心の科学の分野でひろく「基本的な二大感情」とかんがえられている「快」と「不快」をテーマにすえて、脳科学の立場から人間の感情(気持ち)についてかんがえる内容となっている。


著者は実験科学の現場に長くたずさわってきた人だ。
この本の大きな魅力は、理論や仮説によって現実を裁断しようとせず、実験によって「分かっていること」と「分かっていないこと」とを綿密に区分して、人間の心と行動の複雑さを浮きぼりにしようとする、著者の実験科学者としての繊細さと謙虚さ、柔軟さからきているものだとおもう。
実際、この本の大きな特徴は、動物や人間を被験者としたたくさんの実験の紹介である。


人間の心についての著者の見方、考え方も、動物実験の経験をとおして培われたものであるという。そこからくる基本的なスタンスは、次のような言葉でしめされる。

これからこの本では心を動物としての人間が生きる営みの中でとらえていこうと思う。(p29)


こうした視点は、「正常」と「異常」という区分に対して批判的な、言い換えれば人間の心や行動に対するニュートラルな見方を可能にする。
摂食障害や依存症、うつ病といった、「心の病」とか「異常さ」とされているものに対しても、著者は「生き物としての人間の振る舞いという大きな枠組み」のなかでとらえることによって、そこに肯定的な価値を見出そうとするのである。
その見方の柔軟さ、寛容さ、力強さは、たいへん魅力的だ。

行き過ぎ、すなわち異常に踏み込む力がなければ、人間の人間らしさは形成されてこなかったに違いない。(p234)


本書は、「病気」や「障害」の治癒のための処方を与えることを目的としたものではないが、社会や文明のあり方、そしてなにより読者が自分自身の生き方を見つめなおすための示唆を、多くあたえてくれる。


この本では人間の脳の仕組みを、知覚や思考といった高度な働きをになう「高次脳」と、食欲や性欲など生きていくための基本的な欲望をになう「低次脳」との区分というモデルをもとにして解説していく。しかし、この両者は別個に働いているわけではなく、相互に連絡しあい、影響を与えあって活動しているという。
たとえば、もっとも基本的な欲望とかんがえられている食欲も、本人の意志や価値判断や社会的な意識によって大きく影響をうけている。現代の豊かな社会に生きる人間と、そうでない社会に生きる人たちとでは、「空腹」や「満腹」を感じる臨界点がちがう。
「高次脳」と「低次脳」との連絡やバランスがうまくいかず、片方が「暴走」してしまったとき、「異常」とよばれるような行動が生じることになる。
とりわけ現代の社会では、「高次脳」が「低次脳」を「ねじ伏せる」ことによって生じるとかんがえられる、自殺やリストカット摂食障害などが大きく問題とされるようになった。
こうした視点から語る著者の理論的な立場は、脳の働き、人の心の働きの総体を、「システム」としてとらえるものだ*1
ただ先にも述べたように著者の態度の特徴は、システムのなかの一部分の「行き過ぎ」(暴走)を、「異常」と決めつけることで抑圧せず、肯定的にとらえようとするところにあると思う。


ところでこの本を読んでもっとも印象に残るのは、「認知の機能」(脳の高次な働きとされる)が、「感情」や身体の生理的な反応に対して果たす役割、影響の大きさである。これは人間、ことに現代の社会に生きるわれわれの心においては、とりわけ重大なものであるようだ。
たとえば、自分の感情状態に自分で気づく「メタ認知」と呼ばれる働きがなければ「快」と「不快」に代表される「感情」というものは成立しない、と書かれている。

メタ認知が発達していなければ本当の意味での感情体験は存在しない。動物が何かに接近して一生懸命になっていたとしても、そこに「快」感情がかかわっていると見ることはできない。自分を見ているもう一人の自分、すなわち高次の認知機能が確立していなければ、「快」や「不快」を感じることはないのだ。(p83)


こうした観点は、動物の行動だけでなく、人間の依存的な行動(アディクション)をも、「本当の意味での」感情体験や快楽とはズレたものとして捉えることを可能にするだろう。

反応性が鈍いからこそ、さらなる「快」を求めてますます深くクスリにハマっていく。つまり薬物依存者は飽くことなき快楽の追求者になったように見えるが、彼らは皮肉なことに「快」を感じることができないのである。(p92)


ここには、快楽を、人間が持たざるをえない複雑な脳と心のシステムのなかに肯定的に位置づけようとする著者の意図がうかがわれるようにおもう。


認知の機能が感情に対してもつ重要性について、本書からもうひとつ例をあげよう。
うつ病は、もののとらえ方や考え方のクセが原因となる「認知の病気」であるとも考えられているそうだ。
動物に、不快な刺激から何をやっても逃れられないことを学習させると、逃げられる条件が与えられても逃げようとしなくなってしまう、という実験結果が紹介されている。これを「学習性無力」(または「学習性絶望感」)と呼ぶそうである。
うつ病になる人に特徴的な「認知の枠組み」のひとつに、幼いころから対処不能の経験を繰り返したことによって形成された、この「学習性無力」の傾向があるのではないか、と考えられている。
つまり、「何をやってもダメだ」という考え方のクセみたいなものが先にあり、そうした「認知の枠組み」から、落ち込んだ「感情」がむしろ派生してくるのではないか。
認知が感情を規定することもあるという、複雑な脳のシステムに特有な働きの事例である。


ところで、そうした認知の仕方(ものの考え方)を変える練習によって、うつ病は治癒に近づくことが可能らしい。

その練習では、メタ認知によるコントロールが目指される。つまり、高次脳の中にもう一人の自分を作り、憂うつな気分で落ち込んでいる自分をもう一人の自分に眺めさせる。二人の自分が十分に対話できるようになれば、そのうちの一人がずるずると憂うつの淵に落ち込んでいきそうになっても、もう一人が救ってくれる。これも「気づき」といえる。(p201)


自分自身の状態を他人の目で見られるようになること、つまり「気づき」も、本書にたびたび登場する概念だ。
それは、「メタ認知」という複雑な脳に特有な機能の産物である。
薬物やアルコール、賭博など、多くの依存症も、この機能の歪みに原因があると考えられているそうだ。

*1:これについては、新しいシステム理論のひとつとして「オートポイエーシス理論」というものが紹介され、事後的に心や行動を解釈してしまう第三者の視点ではなく、当事者の視点に立ってみるなら心は統括者をもたないサブシステムどうしのゆるやかなネットワークで成り立っているのではないか、という見方が示唆されているのが興味深かった。