ドストエフスキー『賭博者』

賭博者 (新潮文庫)

賭博者 (新潮文庫)

久しぶりに読んだが、やっぱり滅茶苦茶に面白い。
結末の「落ち」は、予測できるのだが、声をあげて笑ってしまう。
ここまで徹底するとかえって痛快なのだ。
賭博の「渦」に巻き込まれていくリアルさは、実体験でないと書けないだろう。
主人公とポリーナとの関係にしても、ルーレットにのめりこんで破産したということも、作者の経験に基づいているのだ。
主人公が賭博のフェティッシュな魔力に本格的に引き込まれていくにつれて、ポリーナに対するパセティックな恋愛の情熱が冷めていくように書かれているのは、(実際そうだったのかもしれないが)なかなか興味深い。
これは主人公のポリーナへの感情の底に、もともと「社会的関係」そのものに対するフェティシズム、アンドリュー・ヒューイットの言う「構造的欲望」が存在していたからだろう。つまり、ここにはある種の「他者性」が元々欠落していたのだ。
この欠落は、現代の資本主義社会を生きる者には、たいへん縁が深いものだと思う。主人公の情熱(倒錯)は、ほとんど現代の金融や証券市場のディーラーたちのものだと思えるが、もちろん「倒錯」しているのは、この人たちだけではない。
今日では、社会全体がルーレット場になったのだ。


ドストエフスキーに関心があったのは、人間の欲望というような抽象的な概念ではなく、自分自身を巻き込み魅惑していた欲望の「渦」の、特異な性質だろう。
彼は、19世紀にはすでに、その「外部」が存在しえないことが明らかになりつつあった、この「渦」の特異な性質と、その行く末を見極めようとしたのだ。


むしろドストエフスキーは、この「渦」そのものを最も深く愛した人だったといえるかもしれない。


(前略)これからとるべき一歩を考える代わりに、過ぎ去ったばかりのさまざまな感覚、なまなましい思い出、当時あの渦巻の中にわたしをひきずりこんで、またどこかへ放りだした、ついこの間までのあの旋風などの影響の下で暮らしているのだ。いまだに時折、自分が相変わらずその旋風にもまれていて、今にもまたあの嵐が吹き起り、ついでにわたしをその翼でひっさらい、わたしはまたしても秩序や節度の感情からとびだして、とめどなくきりきり舞いをしはじめるのだ、という気がしてならない・・・・(p210〜211)