死刑になりたい

きのう書いた『パラダイス・ナウ』だが、映画の宣伝サイトに掲載されたインタビューの終わりの部分で、監督のハニ・アブ・アサドは、次のように述べている。
http://www.uplink.co.jp/paradisenow/interview.php

劇中でスーハがサイードに「日本のミニマリスト映画みたいな人生よ」と言うシーンがありますが、このミニマリスト映画とは『ユリイカ』(青山真治監督)を思い描いて入れました。また、実はこの映画の画面の構図は、何シーンか『ソナチネ』(北野武監督)から影響されています。知らない世界を体験し、感じることができる、それが映画の魅力ですね。


実際、この映画を見た人の多くは、北野武をはじめとした、現代の日本の映画作家たちの作品を思い出しただろうと思う。
それは、それを肯定するかどうかは別にして、未来を閉ざされ閉塞した日常に置かれている若者たちの生の力のひとつの発現として、自己破壊的な暴力や、また瞬間的な叙情のようなものを、スクリーンの上にとどめようとしている点が、共通してるからだと思う。
破壊も、優しさも、そこに凝縮されている。


無論、日本にパレスチナのような、あるいはチベットのような、抵抗闘争があるわけではない。それどころか、パリ近郊で移民労働者の二世たちが起こしたような「暴動」の怒りも、この国ではまだそれほど表立ってはいない。
この国では、未来を閉ざされた者、追いつめられた者の暴力は、「聖戦」とか「殉教」という言葉によっては、それどころか「悲劇」という言葉によっても決して美化される恐れもない、理不尽な「理由なき殺人」や「(弱者への)襲撃」というふうな形をとってあらわれる。
そうした暴力と、抵抗の暴力とを同様に扱うのは不当だろうか?
だが、殺された一般市民や遺族から見れば、そこに違いはない。
こうした言い方が、抵抗の暴力を排斥する市民社会の論理であることは分かっているが、重要なのは、この「違いがない」ということには、さらに根本的な意味があるということである。


それは、パレスチナの「自爆攻撃」の実行者も、日本の「理由なき殺人」や「野宿者襲撃」の遂行者も、どちらも閉塞した不当な日常の中で、自分自身の生と切り離されて、死や暴力へと水路づけられて日々を生きている、という共通性だ。
全ての大義より先に、もしくはその不在よりも先に、この押し込められた現実への絶望と、もがいている生の姿がある。
その絶望と苦悩が、しばしば暴力の形をとってあらわれ、そして、ときに、国家や組織は、それを容易に利用する。
最も根本にある暴力は、人をそうした暴力や破壊の方へと水路づけている社会的な力、不正義の方だ。



たとえば、きのう日本では、こういうニュースがあった。
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn/20080423/20080423-00000441-fnn-soci.html


「死刑になりたい」がために人を殺すという発想は、自分の生を「生きるに値しないもの」ととらえていなければ、出てこないだろう。
自分の生を「生きるに値しないもの」としか考えられないということ、それは人と自分の生との分離をもたらす。
ここで「自分の生」とは、たんに「他人の生」と区別される私の個別の生存を意味するのではない。それは、私にとってのこの世界というもの、つまり他者と出会うための地平をこそ意味しているのだ。
だから、人が自分の生と分離されるということは、人が生きて他人と出会うための地平を奪われることであり、それは、他人の生を尊重する力(能力)をも奪われるということを意味する。
こうした剥奪のさなかにある人に「生命の尊さ」を理解せよと求めることは、不可能な要請に近いのだ。
人が「占領」や「貧困」といった絶望的な状況に置かれるということの、政治的な効果は、じつはそういう自他の生命を尊重できない人たち、つまり死や破壊(暴力)に向かってコントロールしやすい人たち(人材)を量産できるということである。


重要なのは、そこに人を追いやっている人間がいるということであり、本当はその者たちが「無差別テロ」や「理由なき殺人」を増幅させている張本人だということだ。
それは必ずしも特定の権力者ということでなく、映画の登場人物サイードの言葉を借りるなら、「遠巻きに見ているだけの」人たち、われわれ一般市民のことでもある。


「死刑になりたい」といって殺人を犯す人は、自分の生が無価値であり、死んでしまいたいと思っているが、自ら命を絶つ行為を行う力も奪われている人、それほど徹底的に自分の生(つまりこの世界とのつながり)から分離されている人だろう。
たとえば厳罰化によって死刑の判決や執行数を増やすことが、こうした人たちによる犯罪の数を減らすことになるとは思えない。
だが、ぼくがここで言いたいことは、厳罰化の是非や、その効果の有無ということではない。ぼくは死刑にも厳罰化にも反対だが、もっとも醜悪なことは別にある。
それは、恐らく死刑の存続と強化を望む多くの人たちが、死刑によってそうした凶悪犯罪が減るとは、期待もしていなければ、望んでもいないだろう、ということである。
多くの人々は、自分の生を「生きるに値しない」もののようにしか感じられず、その自分の生の破壊を望むように、「生きるに値しない」と社会的に定義された他人(犯罪者)の死を欲望するのだ。
生を貶められた者たちが、他人の生の否定を欲望する、その水路づけられた構図こそ、この世でもっとも醜悪なものである。