希望がまったくないわけではない

去年もそうだったが、年が変わるこの時期になると、アカルイ感じのことを書きたい気分になるのは、それだけ現実の状況が厳しくなってきてる反動だろうか。
人も家も、暗いあいだはまだ大丈夫だ、と反語的に書いたのは太宰治だ。むやみにアカルさを語りだすと、もうヤバイのである。
それでもなお、こう思う。
希望は、まったく無いわけではない、と。
それは、状況が今後良くなりそうだとか、悪いなかでもよくなる兆しがある、というようなことではない。
むしろ、その兆しが具体的にはどこにも見られないということのなかにこそ、希望が見えている、という気がするのだ。
これまでは、「希望がない」という現実が見えなかった。それは一番深い絶望だろう。
それに較べると・・・。


なんかキルケゴールみたいになってきたな。
いや、そういう逆説的なことが言いたいのではなくて、自分の足元や身の回りを見つめて、希望がまったく見えない現実からはじめる、という覚悟を一人一人が、特に自分自身が、せざるをえない状況になってきている、ということだ。
つまり、与えられた「希望」にすがるのではなく、それを自ら作り出そうという気持ちが生じはじめている。これは、これまでの時代にはなかった現象かもしれない。これまでは、「希望」はそこにある、と思われていたわけだから。
もしここからそれぞれが本当に歩みだすことができるなら、この今の社会の状況は「明るい」。アカルイ、のではなく。つまり、光によって現実が明らかになる、という意味で明るいのである。それがどんな現実でも。
そして、こういう「明るさ」以外に、本当の明るさがあるだろうか。


たしかに、主観的にも客観的にも、現実は暗いと、ぼくは思う。
しかし、自分の外側にも内側にも広がっている闇を見つめる勇気を、一人一人が持つときにこそ、希望は見出されうるのだ。一人一人の内部にも広がっているこの闇をとおして、人々がつながれるなら、借り物でない本当の希望というものがはじめて形をなしはじめるだろう。
希望はそこにあるものではなく、自分たちが見出し、作り出す以外ないものだという些細な事実に少なからぬ人が気づくなら、その営みは信頼されていい。どんなに先の見えない、遅々とした歩みでも。
だから、「希望がある」などと簡単に言ってはならない。かすかな希望への歩みを殺さないために。
「まったくないわけではない」と、慎重に言い続けるべきなのだ。