暴力や虐待について

その後もだらだらと読んでいたフロイトの『人はなぜ戦争をするのか』(光文社古典新訳文庫)を、中山元の解説とあとがきまで、やっと読み通した。


結論として、フロイトの最後の思想になるらしい「死の欲動」と呼ばれるものは、分かるところもあるのだが、そこから人間のさまざまな暴力、とりわけ戦争のようなものまで理解しようとするのにはやはりついていけないところがある。
「戦争をなくせない」ということと、「欲動(本能)をなくせない」ということとは、次元の違う問題であろう。フロイトの思想には、そこを混同することによって、「暴力の社会性」みたいなものを見えなくさせるところがあると思う。


また、「攻撃性」や「破壊性」をあれだけ人間の「本質」みたいなものとして強調したことには、やはり時代的な制約みたいなものを感じる。
資本主義の発達とか帝国主義の膨張や世界戦争とか、現実の社会のあり方から影響されたイデオロギーみたいなものではないだろうか。
人間には「欲動」みたいなものがあるとしても、それが現実にどういう表われ方をするかということは、社会的な条件に大きく左右されるので、「攻撃」や「破壊」を「本質」のように考えるわけにはいかないだろう。


「暴力」の問題は、たしかに考えるのが難しい。
たとえば「虐待」ということについてもそうである。
人はなぜ虐待をするのか?
自分の経験から言うと、相手にひどいことをする時には、たしかに「欲動」というのか、何か自分の中でうごめいているものがあり、それに動かされて理性のようなものが働かなくなっている(遮断されている)のである。
だが、そういう「うごめいているもの」が、目の前の相手に向けられるということ、あるいはまた相手をなにがしか傷つけたり圧迫したりする行動としてあらわれることは、「本質」というようなものではなく、どこかで捻じ曲げられたりすり替えられた結果であるという気がする。
では、そういう加工が施される前のこの「うごめいているもの」は、どのようなものかと言われると答えられないが、とにかく、(暴力や虐待として)現実に現われた「欲動」と呼ばれるものは、私にとってはよそよそしい何かである。


フロイトがこの本で言ってることのなかでは、「戦争と死に関する時評」のなかにでてくる「死の味」という表現、つまり身近な人に対するアンビバレントな感情の葛藤のことが、一番興味深かった。
それは、暴力と人間の感情との関係を示唆する、もっとも説得力のある視点かもしれない。
平和運動家や動物愛護家が、子どもの頃には動物の虐待者であることがしばしばあるという指摘も、ここに関係しているのだろう。


そして皮肉なことと言ってよいのか、現代の日本ではかえって「平和運動家や動物愛護家」が社会的な虐待(バッシング)の対象になることがある。
だが、ここでもぼくは、以前にここに引いたシモーヌ・ヴェイユの言葉を思い出す。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20071207/p2


『そのおそれは、おそらく、善との接触が現実となってきたしるしなのであろう。』というところを、特に思い出すのである。