相模原の事件について

相模原の事件について、容疑者が衆院議長に送ったとされる手紙の全文が、黒塗りつきだが公表されているようだ。
http://breaking-news.jp/2016/07/26/026100


これを読む限りでは、また報じられている容疑者の言動を見ても、日ごろマスコミやネット上にあふれている政治家や文化人、一般の人々による、差別的、排外主義的な発想・発言の寄せ集めという以上のことを感じない(それらは、近年に突然出てきたものではない)。
つまり、この容疑者が語っているような思想は、まったく酷いものであることは確かだが、今の日本ではなんら特異なものではなく、むしろ支配的な言論だといえる。
その証拠に、首相をはじめ政治家たちは、容疑者が明言しているという差別主義的な犯行の理由に関して、明確に反対のメッセージを出そうとはしない。その理由は、そうすることが自分たちの進めている政策や、今後進めていきたいと思っている政治の方向性、および支持者である社会の大多数の人々の実感や欲望といったものを否定することにつながってしまうからだ。
この容疑者の発言と行動は、今の日本の政治権力と社会全体の雰囲気の反映だ。
だからこそ、猟奇的な関心はあっても、多くの人の命が奪われたことに対する強い悲しみも、
容疑者個人ではなく彼が表明している差別主義の思想と、行為とに対する真剣な怒りも、どこからも聞こえてこないのだ。
僕には、そのことが何よりも恐ろしい。


上の手紙で容疑者が語っている、「保護者」や介護労働者の疲れきった表情というのは、むしろ政治と社会総体がはらんでいる、あらわではない差別や優生思想的なもの、端的にいえば生存に対する否定的な思想と制度とが生み出したものだろう。
おそらく、この容疑者の心理や思考自体もそうなのだ。
容疑者は、いわば原因と結果を取り違えて、結果を消し去れば、原因も改善されるかのように考えている。それは文字通り、「美しい日本」の錯覚だといえる。
障害者の生を、「不幸しか生み出さない」ものとしか見られないということも、容疑者自身が、この否定的な思想と制度に支配され、そこから抜け出せないままに生きてきたことの表れだと思う。


「障害者の抹殺」という制度上の蛮行は、海外ではナチスドイツのT−4作戦が有名だが、それは決してファシズムや戦争という特定の社会の状態にだけ関係することではない。
安楽死」の議論にも見られるように、優生思想的なものは世界をきわめて深く覆ってきたわけだし、ネオリベ化が進む今日ではそれは特に著しい。
また、とくに日本では、障害女性に対する強制不妊手術をはじめとして、障害者の生存の否定は優生保護法が存在した戦後にこそ深刻だったのだ。障害者運動の歴史は、そのことの証左でもある。
日本の戦後には、ファシズムや戦争の時代の思想や制度が強力に残存してきたという事実は、ここでも明らかなのだ。
底に秘められたこの残存物は、現在のような戦争やファシズム復権の時代になると、もはや特殊な法律や、一部の政治家(石原慎太郎のような)の放言のような形ではなく、政権の体質や、国民の支配的感情となって、一気に表面化し、すべてを覆い尽くすかのようになる(障害者を「余計な存在」として社会から排除し、「家族」関係や隔離的な場所に閉じ込めておこうという政治家・官僚や大衆の発想が、憲法25条などの自民党改憲案に近似するものであることにも留意しておきたい)。
その現象の一部として、今回の事件も起きたといえる。
戦後の、この僕たちの社会の底に存在してきた、「障害」のある生を排除し差別するような考え方、仕組み、そうしたものと一人一人が向き合い克服していくということでしか、このファシズムと戦争(殺戮)の時代を乗り越えることはできない。
それは、すべての人の生存の肯定、たんに心理的なことではなく、ほんとうに生存と生活をかちとれるか、戦争(殺し合い)に巻き込まれていくかという選択だ。
今回の事件は、そのことを教えていると思う。