島尾敏雄『贋学生』

贋学生 (講談社文芸文庫)

贋学生 (講談社文芸文庫)

だが一体木乃伊之吉は何を目的で私たちに近づいたのだろう。
 私たちは最初から眠っていたし、木乃は最初から眼覚めていた。彼は何かの目的で、私たちに近づいて来たに違いないが、然し、その目的が何であったか私には分からない。むしろ利益を得たのは私たちの方であったと言えそうではないか。 (p242)


インターネット上の議論でよく見かけることだが、何人かの有力な発言者が、それぞれ自分の意見に(エントリーを提示した)ブログの主催者や不特定な他のオーディエンスを転移させようとして、競合関係に入ってしまい、妙に場が白熱化するということがある。
バーチャルでない議論の空間でも、第三者である司会者や、他の参加者、聴衆の転移を勝ち取ろうとする発言者たちの社会的な欲望は、議論を面白くもするが、同時に白熱しすぎて無用の混乱を生んだりもするものである。
すぐれたファシリテーターや司会者といわれる人は、自分自身が転移の対象になるという技法を用いて、こうした発言者たちの社会的な欲望をたくみにコントロールし、時には「切断」することによって、生産的でかつ逸脱の少ない議論の場を作り出していくものなのだろう。その過程を通して、発言者たち自身にもなんらかの成長の機会が与えられるなら申し分ないことである。
こう考えると、司会役の仕事というのは、精神分析家のそれに近いといえるかもしれない。
ところでこうしたとき、発言している人たちは、経験や理論から、自意識においてはこうしたからくり(構造)を重々承知していながら、いったん自分がその渦に巻き込まれてしまうと、自分が操られていることがわからなくなり、司会者の思いのままに競合的な意識を過熱させていく。
これは、司会役の人がとくに「人が悪い」というわけではなく、発言する当人たちの欲望の強さがなせる業だといえる。
欲望の渦の中にいるとき、人はその渦を同時に外側から眺めることは決してできないのだ。たとえば、国際的な精神分析運動の指導者としてのフロイトがそうだったように。


島尾敏雄の小説『贋学生』は、転移と競合関係がもたらすこの白熱した「渦」の姿と手触りを、外からではなく、あくまで内在的に描き出そうとした作品だといえる。
1950年にこの小説が発表された当初、「みごとな悪作」(石川淳)という推薦文の言葉が与えられ、「発行部数より返品部数の方が多かった」という伝説さえ生んだほど、世の評価は低かった。
読んでみると、たしかにお世辞にも「うまい小説」とはいえないのだが、その後幾度も版を重ね、ついには文庫化までされた事実は、この小説の不思議な(それこそ読む者をを知らぬ間に転移させる)魅力を証明しているだろう。
柄谷行人も『意味という病』所収の「夢の世界」というエッセイのなかで、この小説に強い関心をよせ、島尾文学を代表する作品としてくわしく論じている。
しかし現在では、この作品は簡単に読むことができなくなっていると思うので、ここではその内容をややくわしく紹介してみたい(ページは、絶版となった角川文庫版による)。


太平洋戦争が佳境に入りつつあったころ、九州の学校で文学部の生徒だった「私」は、木乃伊之吉という名の医学部の生徒と知り合いになる。「私」は木乃にはじめて会ったとき「いやな奴だ」と感じ、「この人とはつき合うべきではない」と思うのだが、逆にひきつけられてしまう。
木乃にはじめて会ったときの「私」の印象は、こういうふうに書かれている。

ついこの夕方に私は初めて毛利の下宿で木乃に会ったのだが、ずいと毛利の部屋にはいって来た木乃は、紺の浴衣の胸元をしっかり合わせて着ていて、顔の髭そりの後の青さとの対照で、私は人間というよりそこに色彩を感じた。ぼうっと部屋に紫のかたまりがはいり込んで来たと思った。                              (p8)


「私」が木乃にひきつけられる理由というのは、読んでいてもよく分からないのだが、ひとつには「私」は木乃に「芝居の女形」のようなある種の女っぽさを感じると同時に、押し出しが強く見ず知らずの他人、特に女性とも容易に気心を通じさせてしまう木乃の世間的な能力を「男性的」であるとも感じている。
この「私」の木乃に対する見方の根底には、自分の存在やエネルギーの「稀薄さ」に対するコンプレックスのようなものがある。

木乃が車掌の少女をからかいながら歩いている。
 私は一種の驚異の目で木乃を見る。それは汽車の中で老婆をからかった時のように、ちょっと品のない露骨な言葉をずばりとなげかけて、その反応を見るようにじっと相手の顔をうかがっている恰好が、完璧な姿で私を圧迫して来る。それは私の生存を批判していると思い、私は力をなくしてしまう。
 私は車掌の少女が、思わず挙げた叫びのような、なまの笑い声に、強く嫉妬を感じた。恐らくは少女は充分に楽しがっているのに違いない。あの未熟な発声を少女に強いることが出来ない自分の稀薄なエネルギーを何とも無念に思えてくる。(p43〜44)


要するに、見る角度によってどうにでも見えてしまう、曖昧な色彩のかたまり、霧のような存在として「私にとっての木乃」は存在していることになる。このかたまりに「私」の内部にうごめいているものが投影され、「私」を幻惑するのだ。
木乃は「私」と友人である「毛利」との間にたくみに入り込み、二人を競合(ライバル)関係にかりたてて行く。
たとえば、自分の妹は宝塚の少女歌劇のスターだと称し、毛利と「私」の双方に、この妹との交際をそそのかして、二人の間柄をぎくしゃくした険悪なものにしてしまうのである。
「私」は、この木乃の策謀に気がついているのだが、どうしてもそこから抜け出せず、次第に深く木乃の仕掛けた罠にはまりこんでいく。

少なくとも木乃が私に語るような、毛利に対する木乃の蔑視が、毛利には分かっていない。いや、そうじゃないのだろう。木乃が私には隠してか或いは半面だけを言って、他の面では密接に毛利と心を分かち合っているのに違いない。(中略)
 危ない、危ない、と私は思う。
 (中略)
 私と毛利をかみ合わせでもするつもりなのか。然し、何の為に、そういうことをしなければならないのだろう。 
 それが、私には分からない。これも、木乃の性的倒錯のあらわれのようなものなのだろうか。(p118〜119)


また、この男同士の三角関係のなかで、「私」は木乃に迫られるままに、なしくずしに性的関係をもってしまいさえする。
読者には「私」とともに、こうした性的な事柄が、木乃の念入りで奇妙な策謀の理由なのかとも思えるが、それだけでは割り切れないところがある。むしろ、こうした関係の白熱した「渦」を作り出すこと自体が、木乃の性的な欲望の質(構造的欲望)だったと考えられなくもない。
すぐれた詐欺師にとって、金銭ではなく、高度な詐欺行為の達成自体が、その犯罪の目的であるように。
木乃はまた、地方の資産家の息子であることを自称し、親戚だという男と、「私」の妹との縁談話をもちかけて、全て架空のことに違いないこの話を信じ込ませるために、たいへん込み入った術策を弄するのだが、それが何の目的であったのか、結局分からずじまいに終わっていることからも、木乃の不可解な行動の根底にあるものが、この「構造的欲望」、つまり社会的関係性そのものに対する欲望だったのではないか、と考えられるのだ。


だがそうであったとして、思考を停止させるこの白熱した渦は、もともと誰の欲望から生じたものだといえばいいのか。

私は木乃のように、が、ふ、ふ、ふ笑い、思考が軽くなり、そして、この次に木乃がどんな事件を持って来るかを待っているような、魂抜けた自分がよちよち歩き出したことを感じている。木乃に抵抗してみても、たかだかこんな程度であったのか。ともかく私は毛利と一緒に、木乃がくすぐってくれれば笑い、木乃が怒ってみせれば軽蔑しながらもそれに従い、そして結局は、当分彼の演技を見物させて貰おうなどと思っていたのだが、次第に彼の術中に深入りしていたことになった。(p121)


小説の最後では、この医学生木乃伊之吉と名乗った男が、実はまったくの別人であり、彼が語った全ての話が作り事にすぎなかったことが、ようやく「私」やその周囲の人たちの知るところとなる。それとともに、この謎の男は、どこへとも知れず逐電してしまうのである。
唐突に嫌な夢から解放されたようになった「私」は、しかし次のような思いにとらわれるのだった。

あらゆることが、あの木乃伊之吉の嘗ての存在に連なり、私は根こそぎ生活を奪われてしまった者のように、世間が真空に思えた。何とも手答えがなく、私自身影のように薄く、木乃の傷痕だけが鋭く残されている。之はいけないことだ。あの木乃と随伴した日々も私は間違っていたかもしれないが、又今のような調子も亦間違っているように思う。しかし、どうにも膝の力がぬけて、がくっと参ってしまった。(p245)


この小説中の出来事が起きてまもなく、太平洋戦争は最後の段階に突入していく。
回想の形をとったこの小説が書かれた時点は、繰り返すが戦争が終わってから5年後だ。
だからこの奇妙な物語の筋立て全体を、戦前・戦中の日本の政治的・社会的な状況のメタファーのように読む解釈も当然成り立つ。
こうした解釈の陳腐さを批判したのが、柄谷行人の読解だったわけだが、しかし今やわれわれは、この作品によく表わされた島尾敏雄の文学の性格を、欲望と政治との関連という視点から再び注目してみるべき時にさしかかっているのではないだろうか。

私の考えでは、島尾敏雄は他者に対して中途半端な「距離」にあるとき不安にさらされる。それはまだ「来るものがこない」状態のように、彼を不安にし宙吊りにする。そこで、この「距離」を奪いとって他者の下に服従することによってこの不安からまぬかれようとする。(柄谷行人「夢の世界」より 『意味という病』所収)