「性」について、若干かんがえてみた

『p-navi info』さんの記事、『「メゾン・ド・ヒミコ」を見て ─国際反ホモフォビアの日について』のなかで、以前に映画の感想を書いたぼくのエントリーを紹介していただいた。
そこでこの機会に、この映画のことを含めて、ぼく自身の「性」に関する体験や考えをすこし書いてみようと思う。

対象化・「欲望の主体」としての他者

P-naviさんの記事の後半に出てくる映画『メゾン・ド・ヒミコ』は、ぼくもたいへんいい映画だと思い、このブログでもいくつかエントリーを書いたほか、いろいろなところで議論やおしゃべりの材料にしてきた。ただ、その当初からずっと思っていることは、ぼく自身は「同性愛者でない」(これは不正確だし、あまりよくない表現だとおもう)というよりも、「同性愛者である」という実存的だったり社会的だったりする事実を背負って生きているわけではないので、「同性愛(者)が〜」みたいな書き方をすることには、どうしても他人事というか「対象」としてしか語れないという「後ろめたさ」がある、ということだ。もちろん同じことは、「在日」や「沖縄」や「女性」を語るときなどにもあるわけだが、「性」、セクシュアリティーに関する事柄というのは、欲望が関係しているために、この「対象化」ということが、特別に生じやすい危うさがあると思う。


いま「欲望」と書いたが、それは社会的な欲望のことで、というよりも欲望は本来社会的であるしかないわけだから、社会の仕組みとしての消費とか抑圧とか差別とかいう問題が、どうしても絡んでくる。まず、この点は押さえておきたい。
また、「対象化」ということの意味は、自分が対象となることなく、一方的に相手を対象にしてしまうということであり、そのことを自明視してしまう、ということだ。これは、他者を「(欲望の)主体」として見出せなくなるということと同時に、自分の欲望のなかにある悪しき「社会性」みたいなものをとらえられなくなるということでもあり、ここから色々な形の性差別や性暴力、そのなかにはセクハラとかストーカー行為とか、ドメスティック・バイオレンスのようなことも含まれるが、そうしたものが生じるんだと思う。つまり一口に言うと、「欲望」という装置をとおして、自分が大きな権力なり資本なりに操作されることが可能になってしまう、ということ*1
これは、ぼくにとっては非常に大きな課題だ。


そこで、①まず自分自身の「性」について、少しずつでも考え、語っていくようにする必要があるだろうということと、②性的な関係においては、相手を欲望の対象としてみるだけでなく、自分を相手にとっての欲望の対象になりうる存在としてみるということ、つまり「欲望の主体」として他者を意識するということが、自分にとっては倫理的な意味で非常に重要だろう、というふうに思う。


後者に関して、これは異性愛においてはということだが、男性と女性の関係において、いまだに男性の方にこのような意識が稀薄であろうと思う。欲望の主体としての他者を肯定するということは、支配的に振舞ってきた側にとっては、なかなか容認しがたい脅威である。弱い相手には、一方的に「対象」(客体)でいてほしいものだ。そして、自分が客体にされることは、誰にとっても不安で辛い。
ぼく自身が特にそうであるということも認めざるをえないが、それにとどまらず、いまのこの社会は、そういう意味でも圧倒的に「男社会」だと思う。というのは、現実の歴史的な条件のなかで、男性が優位(支配的)な位置に立つことが、資本や権力によって要請されてきたからだ。だから、男性として生まれ、育てられた人のほうが、相手を対象化する社会的な眼差しに自分個人の欲望を同一化する度合いが強く、それを相対化することが難しい。支配的・保守的な価値観に対する批判を、自分という一個の人間の(自由な欲望の)根底を脅かす批判と受取ってしまいがちなのである。


男性性、女性性と現状のシステム、といったことについて、これ以上書くと、ジェンダー論的な方向へどんどん話がずれていきそうなので、ここではやめておく。

自分の体験から・欲望の二面性

ところで、上記のエントリーで、ビーさんはこう書かれている。

それでわかったのは、男/女という対立軸だけでは、まったく捉えきれない性のグラデーションのありよう。私を「変態(クィア)」と呼ぶ人がいてもいいけれど、私はあまり自分をその名称に結びつけないだろう。誰にだって、微細なところで、2つに割り切れない領域を持っているだろうから。


ぼく自身のことでいうと、これまでに一度だけ、男性の友人にはっきりした性的な欲望をもったことがある。非常に親密な間柄だったのだが、自分がその人を性愛の対象にするとはまったく予想できず、ある日突然、そうなったのである。
その時に、「異性愛者である自分」と「同性愛者である自分」とは、「グラデーション」でしか隔てられていない、というよりつながっているのだということがはっきり分かった。
いや、「グラデーション」というよりも、この二つの「自分」は、ゆるいなだらかな坂でつながっているような気がしている。「坂」というのは、そこに権力性を感じているからだろうが、いったいどちらが坂の上で、下なのか?ともかく、そうした多様性というか不安定性を、「自由に行き来できる」というふうにポジティブにはとらえることができない自分の意識が、そこにはあるのかもしれない。


そして、この二つの自分をつないでいるものは、もちろん「欲望」だろう。欲望が、自分のなかにある、この輝かしい不安定性、あるいは流動性を、ぼくに教えてくれるわけである。
ドゥルーズ=ガタリは、マジョリティーは「ペルソナ」でしかありえないということを言ったが、女性にせよ男性にせよ、自分のなかにある流動可能性のようなものを抑圧する(つまり、ペルソナになる)ことでしか、社会の支配的なシステムに参入できないということはあり、それがセクシュアリティーとか、ミソジニーやフォビアの問題と関係してると思う*2
そして、この流動可能性ということが、やはりセクシュアリティということと深く関わっており、資本や権力に操作される社会的な装置としての「欲望」と、他者との関係をつくったり、(ジュネのように)関係を危機に陥らせてでも「強度」を生成したりする、「抵抗の拠点」としての「欲望」という二つの面が結びつているのも、ここにおいてだろう。
欲望は、人を解放すると同時に、支配もするものだ。


欲望がもつこの二面性が、結局のところ、ぼくにとっての非常に大きなテーマなのである。そしてそれは、「他者の欲望」としての社会的な欲望ではなく、「欲望の主体」としての現実的な他者の存在に深く関わっていると、倫理的にはいうべきだろう。
しかしそれ以前に、自分自身の欲望を、社会的な力の外部において、どう肯定するかという課題がある。
じつはぼく自身は、幼いころから、異常なほど性的に早熟なところがあった。つまり、「快楽」に弱いということである。
これは、今になってみると、自分という人間の大きな長所になっている反面、それが原因で他者との関係を無闇に壊したり、社会的な力に抵抗できない原因になっている面があり、なにより(逆説的だが)自分自身のそういうセクシュアルな部分に対する怖れが、自他の欲望に対する不寛容や抑圧性を生じさせてしまったように思う。つまり、一種の構造的な抑圧の罠にはまったような感じがある。
この「怖れ」(?)にかかわる部分を整理し、克服しなければ、自分が自他に対して「抑圧的」な人間であることをやめることはできないだろう。フォビアも性差別や性暴力も、実はまずぼく自身において解決していくべき「問題」なのである。


最後に、『メゾン・ド・ヒミコ』については、いくつかの面で、自分がまったく見られていない、もしくはあえて見落としているらしい要素が少なからずあることに、最近気付くことができた。この映画について、ぼくもいつかあらたに文章を書くことになるかもしれない。

*1:欲望を肯定するポストモダン思想の危険性は、ここに関係している

*2:もちろん、資本や権力は、それらが要請する限りでの「多様性」や「流動性」は認めるのだろうが、それは「要請」の向きが変わればたちどころに否定されてしまうような「認可」にすぎない。