ジュネ・国家と家族

明日から、小旅行(?)のため、数日更新しません。


阪神ジュべナイルFは、アルーリングボイスは強いだろう、まあ。


やはり河出文庫から出ているジュネの『ブレストの乱暴者』という本を買ったのだが、別に古本屋で珍しい本を見つけたので、先にそちらを読もうと思う。
それは、島尾敏雄の古い小説『贋学生』の文庫版(絶版)だ。
この作品は、島尾の異色作というか、失敗作という定評があったようだが、『意味という病』のなかで柄谷行人がたいへん重視して論じており、一度読みたいと思っていた。たまたま文庫本を見つけたのも何かの縁だと思うので、明日バスの中ででも読んでみよう。
島尾敏雄という作家も、ちゃんと読んだことがない。


ジュネについて。
彼の場合、その生い立ちと、想像力とセクシュアリティの独異な質が、他者との関係性を決定した、ということになるのだろう。
捨て子だったということが、社会以前に、まず家族という基盤的な共同性に対する彼の「距離」、「孤独」、「切断」、そういうものを形作ったのだと思う。
また、ホモセクシュアルの人の場合、多くは親や兄弟などの近親に対しても、友人に対しても、自分が同性愛者であることを打ち明けられないのが普通だということだから、ジュネの場合も(育ててくれた施設の人や、里親との関係において)、その面でも「家族」という共同性の自明性に対して距離を強く意識する、ということがあったのかもしれない。


サルトルや、アンドリュー・ヒューイット(「敵と寝ること」)などが論じているところによると、ジュネと国家との関係は、非常に複雑なものらしい。単純に、「国家や制度に敵対した」という見方も出来ないようだ。
『弔鐘』で、デリダヘーゲル(特に『精神現象学』)と関連づけて語ろうとしたのもジュネにおける「家族」と「国家」の対立と連関というようなことだったのではないか、と思う。


それはともかく、「家族」(共同性)に対するジュネの「距離」の感覚が、彼の生い立ちに由来するものだったとしても、、その「孤独」が他者の共同体や家族愛を否定する方向に必ずしも向かわなかったことは、やはり興味深い。
この「距離」によって、ジュネはむしろ、世界と抑圧された者に対する肯定的な感情を獲得しているように思う。
だが繰り返すが、これがオイディプス的なものでなかったという保証はない。つまり、不可視の、もうひとつの国家の萌芽でなかったという保証は。


日本にはじめて紹介された50年代初めごろにはジュネの文学は、「戦(いくさ)の文学」(坂口安吾)と言われていたそうだが、90年代のジュネブームを経て、2005年の現在では、ジュネはその国家やファシズムとの関係において、もう一度読み直されるべき作家だと思う。