『ナショナリズムという迷宮』


この本は、魚住による佐藤へのインタビュー、もしくは問答のような形をとっている。
歎異抄」とか古い哲学書、宗教書みたいな感じである。


クリスチャン、神学徒でもある佐藤の基本的なスタンスは、次のイエスについての言及によく示されているといえるだろう。

国家や貨幣という人ならぬものに人間が押さえつけられることを彼は嫌いました。ユダヤ教の本来の伝統でいう偶像だと。人間が人間のつくったものに仕えるというのは偶像崇拝で、最も悪いことだと。だから国家に究極価値をおいてはいけないんだと考えたんですね。何より大事なのは個々の関係性の積み重ねです。そのなかには神との関係もあります。関係性が「すべて」だということを身をもって示しました。(p32)


マルクスは貨幣を物神と呼んだそうだが、佐藤にとっては国家もまた、偶像であり物神である。それに対して「個々の関係性」を重視する佐藤の言葉には、宗教的な背景や、魚住が「あとがき」で触れている沖縄戦を体験した実母の影響と思われるものばかりでなく、とくにロシアでの外交官としての実践から得たものが深く関わっているようだ。


だが、同時に佐藤は、国家の存在を不可欠な必要悪として捉えてもいる。
産業構造の変化に応じて社会全体が流動化してくるなかで、国家が人々を束ねる手段として人為的に作り出すものが、ナショナリズムだとされる。
なぜそれが必要悪といえるのか?いいかえれば、なぜ国家が人々を束ねることが妥当と考えられるのか。
実はここが、佐藤の主張のひとつの要点になる。


そのことは、本書の題名にもなっているように、ナショナリズムというものが(差別と同様に)、方法論的に経済のみを切り口としたマルクスの理論によってもとらえきれない人間の「業」のようなものであるという認識と関係している。
ナショナリズムは、そのためには人が自分の命を投げ出してもかまわないとするものであり、「業」としか呼べないような人間の情念を国民国家という対象への愛着として回収することで、いわば「コード化」(ドゥルーズ=ガタリ)する装置だといえるだろう。
もし、この装置が失われればどうなるか。そこに、佐藤の危惧がある。
国民国家ではない、むしろそれよりも危険かもしれない新たな「国家」の出現の可能性を、彼は語るのである。

佐藤  これはまだ仮説の段階ですが、9・11(米同時多発テロ)以降にはっきりと姿を現してきたアルカイダがそのように映ります。今後、このような集団が、国家に代わりうる機能を果たすのかもしれません。国家には分業化の進んだ社会を調整する役割があると同時に、この対話で強調してきたように、人間に命を投げ出させてしまうだけの強烈な力もありますね。
魚住  ええ。
佐藤  国家や民族ではないもので、非常に強力な共同主観性を帯びたもの、要するに宗教です。これが国境を超えた共同体を形成しうるのではないか。というのも、その共同体の名の下に自己の生命を差し出すことのできる人間を継続的に作り出すことに成功しつつあるのではないかと私には思えるからです。(後略)(p145)


こうした立場から佐藤は、国民国家ナショナリズムを、人間が作ってきたシステムのなかでは、よりマシなものではないかと考え、評価するのである。
これは、非常に刺激的な指摘だ。どこを特にそう思うかというと、彼が国家の枠を越えるような反体制的な連帯のイメージを、「宗教的原理主義」(ここは、カッコつきで書くが)と結びつけている点である。
まず、このような立場からの国民国家擁護は、現在ではむしろ「左派」の多くに見られる主張である。宗教学でいう「国教」と「セクト」の対立に類似したものが、左翼のなかにもあり、左翼のなかでのセクト的なもの、どちらかというと国際的なアナーキズムのようなものへの敵意と警戒心は、左派の内部にも強い。そして、そのことにはそれなりの理由があると思う。国家主義的な「旧左翼」の保守的言説というふうに切捨てられないものがあるのだ。
それに関連していうと、『千のプラトー』で展開されていたドゥルーズ=ガタリの国家論の大事なポイントのひとつは、「国家はいたるところに存在するし、生じうる」ということだったと思う。それは、全体主義的な監視国家のように、国土や不可視の空間のすみずみまで国家権力の網の目がはりめぐらされている、という意味ではない。国家に対抗し抵抗する大小の組織・集団のそれぞれが、つねに悪しき「国家」へと変質する危険をはらんでいるという意味であり、「国家が捕獲装置である」ということの深い意味は、それだったのである。
それを敷衍していうなら、国家主義的な「旧左翼」のみが、悪しき「国家」と同型なのではない。アナーキストマルチチュードも、いつでも「国家」的になりうるのである。


だがそれにしても、佐藤がある種の宗教勢力がもつ危険性を主張し、それに「アルカイダ」のような存在をストレートにむすびつけている点には、疑問がある。
アルカイダ」が、宗教や共同主観性だけに関わる存在であるかどうかは分からない。むしろ、現在の世界では、そうした一見「脱国家」的な共同性の産出が、国民国家の枠組みのなかでこそ強められ繰り返されていることへの批判が重要なのではないだろうか。国家や資本の支配は、現実には「圧倒的な力の不均衡」(萱野稔人)のもとで行われていることは否定できないと思うからだ。
その批判が十分に行われず、国民国家的な枠からはみ出すような勢力の危険性のみが強調されるなら、それはたとえば「共謀罪」のような法案・体制の確立に寄与するだけだろう。


さて、こうした国家観をもつ佐藤が日本の現在の国家のあり方を批判し、官僚が支配する「統制経済」への流れや、ファシズムの到来に抗おうとするのは、だからそのことによって「よりマシな制度」である国民国家が弱体化し、より危険な新しい「国家」と呼ぶべき宗教的な共同性の国境を越えた蔓延するという事態を阻止しようとするからだといえる。
佐藤は、この意味で「相対的な国家主義者」とでも呼べそうな人である。
彼がこの本で言っていることで、とても面白かったことのひとつは、「思想」とはたとえばコーヒーが一杯二百円で飲めるという、それが当たり前だと思っている所与の現実を疑わない態度のことであり、マルクス主義などのそうした態度を否定する思考というのは「対抗思想」と呼ぶべきものだ、という話である。
佐藤は、「対抗思想」を持つことの大事さを誰よりも強調するが、同時にその「対抗思想」が、いつしかそれ自体「思想」になってしまうことの怖さを、強調してもいるわけだ。それがつまり、カルトとか、原理主義の問題ということになろう。
「絶対に正しいものはあるが、それは複数ある」(p237、8)という佐藤の主張は、まことに妥当なものだと思う。
だが、「対抗思想」の危険を強調することが、「思想」、つまり現行の国家制度の維持・強化につながってしまう場合が多いということも、現実の力関係のなかではまた事実であろう。そのことについては、上にも書いた。