ネットと公共化

『G★RDIAS』から。

「男化するweb世界」
http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070817/1187335894


後半で主に論じられている、表題に示された趣旨については、よく分かるところがあります。
ただ、ちょっと次の一節に引っ掛かりがある。

それまで「書いてもどうせ誰の目にも触れないだろう」と思っていたプライベートな日記が、ちょっとした悪意で「2ちゃんねる」に紹介されただけで、アクセス数が跳ね上がり、攻撃的なメッセージや嘲笑を浴びることになる。だから、そうならないように防衛線を貼る=他者の視線を意識する工夫が必要になった。それも、「2ちゃんねらー」という誰か知らない匿名の他者の視線を意識し始める。これが、公共化の第一歩だったのではないか。


「他者」という言葉が使われてるけど、悪意で「2ちゃんねる」に紹介する人や、それを見て攻撃的なメッセージを浴びせてくる人たちというのは、他者でないとは言わないけど、「他者でありうる可能性も捨てきれない」という存在にすぎないだろう。その意味では、家族や親友と同様だ。
家族や友人も、ある瞬間他者になりうるが、たとえば「慣れ」のようなものによって、その他者性は消し去られる可能性をもつ。関係が近ければ、そうでなかったら身が持たない。むしろ、普段はそれを消し去っていることによって日常生活が進行できているというのが普通だろう。
この他者性が覆い隠されてる状態を、かりに「共同性」と呼ぶとすると、それはぼくが考える「公共化」とはむしろ反対のものだ。


もちろん、font-daさんは、上に書かれた「2ちゃんねる」に関わるようなネット上の存在を、何か特権的に他者でありうる存在だと考えているのではないと思う。
それでも、「匿名の他者の視線を」というふうに書かれると、どこか違和感が残る。
ネット上の「匿名の」存在も、たしかに他者になりえるけれども、「共同性」を(私と共に)簡単に形作ってしまう存在でもあると思うからだ。


たしかに、まったく無防備に、自分のプライベートな日記のような感覚で書いていくということがもつ「共同性」から、「防衛線を貼る=工夫する」という行為によって脱却するという意味では、それは公共化への一歩と言えるかもしれない。
だが、それは「共同性の河岸(かし)を代えた」という程度のことではないか。少なくとも、おうおうにしてそうなりうる。
そういうことに終わったのでは、公共化の堕落、であろう。


これはもちろん、「アルゴリズム」によって形成される空間(?)についても同様に言える事だろうけど。
なんか、結論がなくてすみません。