「フリーターズフリー」生田論文についてなど

10日のエントリーだけど、上から9行目の「子が親を介護する」と書くべきところを、間違えて「親が子を介護する」と書いていた。さっきコメント欄で教えてくれる人があり、慌てて直したけど、一番大事なところで書き間違えて全然気づかなかった。
事柄が事柄だけに、もっと慎重に書かないといけなかった。
お詫びします。


ところで、雑誌「フリーターズ・フリー」について。
この雑誌を読もうと思った最初の動機であった野崎さんの論考「生活保護ベーシック・インカム」については、すでに「G★RDIAS」さんにeireneさんによる的確で簡潔な紹介が掲載されており、ぼくがそれに付け加えて書くようなことは、今のところ何もない。これまで何も書かなかったのは、それが主たる理由である。



生田武志さんの論考「フリーター≒ニート≒ホームレス」の重要さについても、誰もが認めるところだろう。読めば分かるが、たいへんな労作である。
ただ、読み終えて、非常に漠然とした疑問を書いておくと、「国家・資本・家族」の三極構造を、「闘うべき」対象として論じているけれど、「国家でなければできないこと」、「資本でなければできないこと」というのは、やはりあるのではないか(家族についてもそう言えるかもしれないが、保留する)。
たとえば、先に少し触れた「週刊ダイヤモンド」の特集記事(「ハケンの裏側」)の内容などは、ある程度大きな資本の力がないと作り上げること、流通させることが難しいのではないかと思う。
国家を崩すには国家の力が、資本と闘うには資本の力がやはり必要ではないのか?
そういう「国家・資本・家族」と反「国家・資本・家族」との「協力ゲーム」が大事である場面もあると思うが、この「反〜」という枠組みを越えるような柔軟な「協力ゲーム」の可能性が、あの論考からは十分に伝わってこないように感じた。


あまり批判的なことを書かないつもりだったけど、書いてるとどうしても筆がすべる。
だからどうしろという代案など何もない、ただの悪口みたいなもんだが。
生田さんの論文については、他にも少し引っ掛かってることがあるので、まとまったらまた書きます。