コミュニティー・排除・感情・家畜化

うつぼ公園に行った話の続きですが、これから書くことは、その時の会話などをきっかけにして日頃考えていることを発展させたということで、今回の強制排除とか具体的な活動のことには直接関係ありません。
だから、関心のない人は読まなくていいです(笑)。


その前にひとつだけ書いておくと、夜焚き火をしてるときに、野宿してるおじさんの一人が、なかなかテントに眠りに行かない仲間のおじさんに、「どうなるか分からんから、落ち着いて寝られんやろ」と言ったはった。
それまでは、そういう話はまったく出てなかったんですが。
あれが、本当の気持ちなんやなあ、と思った。

関心の所在

さてぼくは、野宿者(ホームレス)の人たちと同時に、それを支援したり関わったりしてる人たちというのに、すごく関心があります。
まあ、当事者のコミュニティーがあり、それを支援したりする人たちのコミュニティーがある、と。この二種類のコミュニティーの関係が、いまどうなっていて、これから先どうなっていく可能性があるのか、たいへん重要な問題をはらんでると思います。
社会運動における当事者性と属性の話は、こないだもくどくど書いたのでここでは書きません。
「コミュニティー」の定義は、ここではとりあえず「生活と感情の場」みたいなことでいいんじゃないかと思います。オルタナティブな経済とかミクロな政治の場というだけじゃなくて、「家族」(ジェンダー、再生産、感情形成の装置)に代るものでもある、ということですね。
このへんも、先日からしつこく書いてきてることと関係するわけですが。


それでうつぼ公園で感じたのは、やっぱり、支援者といっても、学生とか、若い人が多いんですね。
この人たちが、何から離脱して、何を求めて、あるいは何に背いて、こういう社会的な立場の弱い人たち、排除の対象とされるような人たちに関わる活動に加わるのかということは、今日の社会では周縁的なテーマではないと思います。
そのことを、できるだけ整理して書いてみます。


こういう他人のことを分析して書くというのは、自分としてはすごく恥ずかしいというか、疚しい気持ちがあるんだけど、自分にはそういうことを言葉にする義務があるとも思うので、あえて書きます。

社会的な感情と排除の普遍化

この日、お話した方のなかに、イギリスから帰国したばかりの若い女性がいました。
この女性が言ってたことが面白かったのですが、第一にイギリスに比べると、日本には反権力的な市民運動があまりない。今回の野宿者支援の動きには、それを強く感じたので関心を持った、ということでした。
運動の反権力性にひかれた、というところがたいへん大事だと思います。
結論を先に言うと、それは、生活と感情の場としての「コミュニティー」の問題、他人同士の連帯や心のつながり、という問題に通じるからです。
資本主義の市場とか、国家の管理とかから排除されたマイノリティーの人たちのコミュニティーには、特有の心の結びつきがある。同胞愛というか、社会的なエロスのようなもので、これは社会運動が発展するためには、非常に重要なものです。一種の家族愛から拡大していくものなんだけど、日本でいう家族愛よりも、ずっと社会的な広がりを持つ感情。もちろん、ただ「美しい」というだけのものではないんですが、現実的に人を動かす力を持っている。
それは、資本や国家という装置の外に出たときに、はじめて見えてくるような共同性のあり方なんだろうと思います*1
反権力的な運動、つまり資本とか国家に敵対する左翼的な運動というのには、これが生じる可能性があるわけですね。
ただ、そうなってきたというのは、近年の「グローバル・ファシズム」と呼ばれるような政治的・経済的状況の強まりによって、資本・国家・家族からの「総合的な排除」が普遍化したという、今日的な条件が大きい。
今日の左翼運動というのは、この「排除の普遍化」というグローバルな事態と切り離せません。
ぼくが、社会運動とか、新しいコミュニティーの形成の重要性ということを繰り返し書くのも、この世界的な事態の進行のなかでは、そうしたことが決して周縁的なテーマではないと思うからです。

日本における家族主義

そこで、生活と感情の場としての「コミュニティー」の問題に入っていきます。
すごく複雑で、うまくまとめられるかどうか分からんのですが。
上記の女性は二番目に、日本は資本主義の支配が強固であるだけでなく、「家族主義」の支配が強固だと感じる、と言っていたのが印象的でした。
野宿者の方たちのような、社会的な排除の対象になりかねないマイノリティーの人たちの共同体には、その日本的な「家族主義」を越えるようなコミュニティーの力を感じる、ということだったと思います。
またこの女性は、こうした反権力的な運動に特徴的な他人同士の「人のつながり」の魅力ということを言っていて、そういうものが、「家族主義」の強い日本ではあまり感じられないように思う、とも言います。
だから、こうした運動の現場に足を運びたくなる*2


これは、実感として、ぼくにもすごくよく分かります。
「家族主義」といっても日本だけのものではないではないかとか、現代の社会では「家族の崩壊」の方が問題になってるじゃないか、と思われるかもしれませんが、これはそういう一般的なことではなくてローカルな(そしてドメスティックな)次元の問題です。
近世の初めに作られて明治民法によって継承(接木)された日本特有の家族制度が、現在もそれ本来の機能によって、他人同士の横断的な連帯や共感を妨げているという事実があり、それが一番はっきり感じられるのが「家族」、つまりコミュニティー(生活と感情の場)の領域である、ということをこの女性は言っていることになると思う。


日本の社会では、欧米や韓国の社会に比べて、(日本的な)家族以外の他人との共感や連帯が生じにくいということはたしかにあると思う。
それは、他の国とは「家族」制度という資本主義的な装置の持つ機能が、違っているからです。日本ではこの装置は、横断的な連帯を寸断するという機能が強い。
柄谷行人にならって、資本と国家と家族という三つのものに深い相関性があると考えれば、これは社会全体の性格の作られ方の問題です。
というのは、「家族」というのは、やはり人間の感情や共感の能力が育まれるドメスティックな装置として存在してきたからです。そこで形成される諸個人の「感情」が、非横断的なものであるならば、横断的な連合に満ちた社会を形成することは、やはり難しい。
これが、日本で欧米や韓国のような反体制的な社会運動が広がらない大きな原因だと思います。
ぼくが話をした女性のような人は、それとは違う、そこから離脱するような「感情形成の場」への希望を、マイノリティーの集団や反権力的な社会運動のなかに、見ているのだと思います。

コミュニティー形成はなぜ重要か

ここで、日本社会のローカルな問題を離れて、資本主義的な装置としての「家族」に代わるような「コミュニティー」の形成という課題が、「総合的な排除」の普遍化がすすむ現在の世界において、どんな意味を持っているのかを整理しておきましょう。
上に書いたように、産業資本主義社会において家族というものは、生活(家事労働)と再生産の場であり、ある種の社会的秩序化の場であると同時に、主体の感情を育成する場としても機能してきました。つまり、家族は資本と国家にとって有用な主体を育成するための制度ではあったが、「その限りで」感情や共感の能力を育む装置として働いてきたのです。
この点が、非常に重要です。
というのは、産業資本主義が終焉した今日の社会では、家族のような主体形成の装置を廃棄して、感情を剥奪された諸個人を情報と刺激によって直接に操作・管理しようとするシステムが主導的になりつつある、と考えられるからです*3
つまり、感情や共感の能力が稀薄な主体をあえて育成し、直接的に支配するという「家畜化」の技法。
それは、「総合的な排除」により共同体の伝統を喪失した巨大なスラムが世界中に出現しつつある現状(fenestraeさん翻訳によるジジェクのインタビューです)では、「貧しい者たち」を支配する強力な全体主義的な技法として定着しつつあるものだといえるでしょう。プリモ・レーヴィが描いた、収容所のなかのような社会。
ポスト工業化社会における「家族の崩壊」という一般的な現象には、こうした管理の技法の変化が当然ともなうはずです。
この新しい管理・操作の技法に抵抗する必要が、社会運動の側にはあります。


そこで、すでに崩壊した家族に代わって、豊かな感情を持つ主体を育成できるようなコミュニティーを形成することが、「抵抗」のための重要な事柄となります。
この場合、家族の崩壊の不可避性を認めず、「家族の再建」を目指すという方向もありうるわけですが、ただ「資本・国家・家族」による「総合的な排除」というふうに問題をとらえると、原理的には、その実効性は疑われるのではないかと思います。
抵抗運動において、あるいはもっと広く(緩やかに?)社会から離脱したり排除された人たちの集合的な生き方を考える場合に、政治や経済のオルタネートだけでなく、感情育成の場としてのコミュニティーの形成というテーマが非常に重要だと考えられるのは、このためです。


また実際問題、過去の社会運動の多くは運動体内部や、運動体間の「感情の問題」(転移)によって挫折や分裂を繰り返してきた側面があるわけですから、このテーマは一層重要といえるわけです*4

スクワットと日本の運動

さて最後に、やはりこの女性から聞いた話を付け加えておきます*5
イギリスをはじめヨーロッパには、「スクワット」といって、空き家状態になってる家に勝手に住むという社会運動みたいなものがあり、闘争をとおしてそれが行政から公的に認められたりする場合もあるそうです。
京都の「町屋」に住む流行とかの過激版みたいなもんでしょうか。
それはやっぱり行政に認めさせるためには、反権力的な闘争があり、いろんな運動とか諸マイノリティー間の連帯みたいなものがあるからそれが出来るらしいんですが、日本には、そういう連帯が少ないということも言ってました。


これはまあ、そうだろうなあ、と思います。運動体とか、集団の間で「つながり」が出来るところまではいくんだけど、そこから先になかなか進まないということでしょう。
なぜそうなのか、といわれると、ぼくも個人的には非常に辛いんだけど。
上に書いた、日本的な「家族主義」の問題が、やはり関係してるだろうと思います。「家族」によって形成される感情(エロス)の幅が狭く、非横断的であるために、一定の輪を越えて広がっていきにくい、ということですね。
こうした社会的な感情の形成のためには、日本では、諸外国に比べてより複雑な(そもそもの土台がないわけだから)コミュニティー形成の努力が必要なのだ、と言えるかもしれません。


ただそれと、運動や集団が「分散的」だということをどう考えるかは、別の問題でしょう。なんでも統合すればいいという話ではないと思います。

*1:付言すると、たとえば「国民」という名前をとっていても、状況によってはその心情の共同性が、こうしたマイノリティー性を帯びるということはありうる。もちろん、非常に危ういものでしょうが。

*2:なおここで、マイノリティー集団の共同性と、運動している人たちの共同性とが、ダブって考えられているわけですが、おわかりのように、そうなる大きな理由は上に書いた「排除の普遍化」ということがあるわけです。ここから、現在の社会では、「社会的属性よりも運動主体の当事者性の方が他者性を担保するものとして機能することがありうる」という、先日書いた事情が生じてくるのです。

*3:このことと、上記のドメスティックな条件との関係は、社会によってさまざまでしょう。

*4:この側面の、ポスト工業化社会の運動における重大さについては、やはり先日書きました。

*5:この人としか話をしてなかったみたいだけど、そんなことはない。