『センセイの鞄』その3 謎・孤独

センセイの鞄 (文春文庫)

センセイの鞄 (文春文庫)

ツキコにとって、センセイの存在は「遠さ」として、言い換えれば安定した距離の不在としてとらえられるようになっていく。
それは、センセイの内面が、ツキコにとって「謎」として表象されるということだ。
この「謎」の中身に接近し、最終的には同一化によってそれを解消としてしまおうとする過程が、社会的な構造としての「恋愛」の本質であることはいうまでもないだろう。


ここで問題になるのは、ツキコがこれまで三十数年の人生で保持してきた他人との距離(関係)についての繊細で保守的な感覚が、この過程を経ることによってどのように変容するのか、しないのか、ということだ。
いま「保守的」と書いたが、これは単純に政治的な意味での保守性ということではない。そういう意味での保守性なら、社会的な構造としての恋愛に全面的に同一化してしまうことの方が当てはまるだろう。その行く末が「幸福な家庭生活」であっても「破滅」であっても、同じことだ。
そういう意味で「保守的」だというのではなく、社会の一般的な構造(それが右派的なものであれ、左翼的なものであれ、あるいはたんに現状肯定的なものであれ)、つまり「物語」にとりこまれ同一化されてしまうことに対する個人の警戒感の強さを、ここで「保守的」と呼んだのである。
ぼくの見方では、ツキコに作家が担わせたこの優れた保守性は、恋愛の過程を経ることで逆に研ぎ澄まされることになる。少なくとも、作家は一人の「自立」した女性の、そうした積極的な変容の可能性を描こうとしている。
それは、世界についての確定的な記述に還元できない「謎」のリアリティーを肯定するような仕方で、ツキコが他人との「距離」についての鋭敏な感覚を強化し再構築する方向を進もうとした、ということである。


きのう引用した、布団のなかで二人が眠りに落ちていってしまう一節を引き継いではじまる「干潟―夢」と題された章は、じつはこの小説の臍ともいえるような部分である。
これは題名のとおり、夢の世界を描いたものと言っていいが、ツキコ個人の夢というわけでもない。ここで、ツキコはセンセイの夢の世界に参入していくのだ。自他の境目が消え去ってしまったような茫洋とした場所において、ツキコは個人という枠を一度抜け出てセンセイという他人の「欲望」に出会い、そこで再び「距離」についての感覚を手に入れる。ただし今度は、より柔軟な、あるいは相互的な感覚を。


ツキコにとってセンセイが「謎」であることは、ひとつにはセンセイが容易にツキコの求愛に応じないという単純な事柄から生じている。
センセイはなにを考え、なぜはぐらかすのか。センセイの内面が「謎」であることは、言うまでもなくツキコ自身の欲望によって生じたことであり、果てしなく強化されていくものでもある。この限りでは、ツキコとセンセイとの混乱した距離をめぐる葛藤は、恋愛という社会的な装置(物語)の一般性から抜け出ることはない。
そこから身を引き離すには、物語を否定するのではなく、物語の枠組みのなかで、その過程(流れ)のなかにわずかな隙間を見出して、その場所で逆に眠りに落ちてしまう必要があるのだ。物語が強いる理性の眠りのなかで、さらにもう一度深い眠りに落ちて閉じこもり、夢見ること。そのなかで、恋愛という「距離の消失」を経て浮かび上がった、「謎」としての他者の欲望に直接出会うこと。
作家川上弘美が見出した、どんな社会的な装置にも回収されないような他者との関係の現実性を確保する戦略とは、たぶんこうしたものである。


「干潟―夢」の章に至るまでに、この小説では、センセイの過去の人生についての思いがけない事実がツキコに明かされる。それは、センセイの前妻は死別したわけではなく、彼女が五十歳のときに男をつくって出奔したのだという事実だ。
センセイがツキコの求愛に容易に応じなかった理由は、小説の最後になって本人の口からいくつか明かされるのだが、そうした明示されたもの以外に、センセイのもとに戻ることなく死んでしまったこの妻の存在と、その出来事の影が、センセイの逡巡や動揺の背後にあったことは、確かだと思える。
「干潟―夢」においてツキコが出会い、たぶんぼんやりと理解する(同一化するのではなく)のは、この存在と出来事が、センセイの内面にとってもつ意味と重さだと、とりあえずは言える。


たしかに、この章を含めて何回か語られる、この妻についての挿話は非常に印象的だ。
最初に書いたセンセイのツキコに対する攻撃性も、この事実と結びつけて理解するべきものかもしれない。
だが、そうした分析的な理解を越えて、本当に重要なことは、この干潟という場所でツキコがセンセイへの思いを通して、自己の欲望の外側にある「他者」の存在のリアリティに触れていることではないだろうか。
ツキコの思いは、ここでセンセイという個人の分析可能な内面にではなく、それをとおして、目の前の他人の孤独な生のリアリティそのものに出会うのである。

「ここは、どういう、場所なのですか」
 「何かのね、中間みたいな場所なようですよ」
 「中間」
 「境、といいましょうか」

「いつごろから、ここに来るようになったんですか」
 「今のツキコさんと同じとしごろからですかね。なんだかね、来たくなるんですよ、ここは」
 センセイ、サトルさんの店に帰りましょう。こんな妙なところにいないで、早く帰りましょう。センセイに呼びかけた。帰りましょう。でも、どうやったらこの場所から出てゆけるんでしょう。センセイが答える。


人々の孤独が出会う場所である夢の干潟は、物語の外部とも内部ともいえない、その境のような場所、あるいは隙間である。
この場所でツキコにとって、センセイは相変わらず「謎」であり続けている。しかしそれは、神秘的な転移の対象というよりも、出処の分からない孤独と不安定さを抱えた弱々しい生の姿である。つまり、生きている他者そのものなのだ。
そして、愛する他人がそのような存在であり続けることへの、穏やかだが覚悟をはらんだ肯定が、否認されることのない不安とともにツキコをとらえ、他人のなかで生きる彼女の生の輪郭をより強固なものにしている。
「謎」が醸し出す、曖昧さのなかで。