『法然対明恵』

法然対明恵 (講談社選書メチエ)

法然対明恵 (講談社選書メチエ)




本書の最初のところで、中世の激動期を生きたこの二人の仏教者の対比の構図が、次のように示される。

筆者が特に注目したいのは、日本土着の自然主義的な他界観と、インド仏教の輪廻思想に由来する死生観が、この二人の体を通じて見事に交叉しているという事実である。(p8)


つまり、法然浄土教を、たんに中国の仏教(善導)の影響によるものでなく、日本古来の死生観と呼ぶべき「常世観」の系譜につながるものと捉え、一方、明恵の華厳思想を、発祥の地であるインドにおいて仏教が本来持っていた(日本の風土の中では次第に失われつつあった)、いわば理念的な死生観を護持しようとする態度と見なす。
そういう観点が示されているのだ。
この対比は、さらに、『情緒(法然)と意志(明恵)、受動態(法然)と能動態(明恵)のコントラスト』という表現にあてはまるものとして捉えられる。
そして、このような明確な対立を有しながらも、両者が共に、末法思想や本覚思想という言葉に代表される当時の社会と宗教界の堕落的な状況に対して、それぞれの仕方で抗ったというのが、著者の見立ての大枠ということになろうかと思う。


では、その末法思想や本覚思想とは何か。
それはいわば、ダラダラの現状肯定、不正義や差別に満ちた世の中の現状を、どうせ末世なのだからとか、何もしなくても元から救われてるのだからという言い分で、なし崩しに是認し、開き直って悪事や没倫理を重ねるような強者(特権階級など)の姿の背景にある思想である。
法然明恵は共に、そういう当時の宗教のあり方、宗教権力のあり方に対して抗ったということである。


法然の教えの特異性について、たとえばこんなふうに語られている。

源信をはじめとして法然以前の浄土教家が語った往生には、生前の功徳や臨終での正しい念仏など、さまざまな条件が付与されていた。一方、法然の説いた往生は、阿弥陀の絶対的救済力が実現する死そのものを意味したから無条件であった。(p129)


『善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや』という、親鸞が語ったものとされる有名な言葉は、実は法然の方が先に使っていたのだ、という面白い話も出てくるのだが、そこで言われる悪人か善人かという区別は、当時の社会においては、殺生や不浄とされることをせずには生きられなかった庶民や女性たち(悪人)と、それらの悪に手を染めずに生きることの出来た特権階級の人々(善人)との区別を意味していたらしい。
特権階級の人間だけが救われるという、当時の仏教の抑圧的な教えを、法然はいわば「死の平等」ないし「平等な死」を打ち出すことによって、否定しようとした。あるいは転覆しようとした。
そこに法然(あるいは親鸞)の浄土教の、真の意味と力があったのである。

法然は、よくいわれるように、家柄・才能・知識・品行などにかかわらず、すべての人々が救われるという単純な平等観を持っていたわけではない。彼は、常識的倫理観をひっくり返したのと同様に、救いの序列を転覆させてしまったのである。(p148)


いわば法然は、たんなる理想主義的平等論者ではなく、宗教的革命家(転覆者)であった。法然の信仰の核心は、腐敗した当時の宗教的権威の否定と、それに抑圧された民衆の(宗教的な)解放ということと結びついていたのである。
だからこそ、法然は、当時の宗教・政治権力によって、激しい弾圧を受ける生涯を送ることになったのだ。

別な言い方をすれば、弾圧を受けるほどの危険な宗教でなければ、人々を時代の重圧から解放することはできなかったわけである。(p159)


この法然像は、たいへん分かりやすいものである。


しかし、それほど激しい現状否定の思想をもった法然が、「情緒」や「受動態」という言葉で表されるような、一見保守的とも見える教えの形態を語ったというのは、どういうことであろうか?
これは法然が、彼の考える救いを、日本の風土のなかに生きる民衆のなかに広め根付かせるために、そうした「情緒」の部分を強調する説き方をしたということ、つまり、教えの技法、いわばレトリックの問題ではないかと思われる。
法然の仏教の、明恵のそれとの大きな違いは、それが民衆への布教とその救済ということに主眼を置いた点である。たんに自分個人の救いではなく、目の前の他人を、苦しんでいる民衆を救済することが、信仰の実践そのものである、という態度が法然にはあったはずだ。
だとすると、教えは民衆に理解され受けいれられなければ意味がない。いやむしろ、教えはそうあることによって初めて、権威を転覆し、衆生を救済しうるものとなる。
そこに「情緒」の重視ということ、民衆に対する、あるいはより幅広い階層の人々に対する教えのレトリックとしての、法然の専修念仏というものが出てくるのだと思う。
そう考えると、法然における「情緒」の重視(著者の言う)というものは、日本という、ある特定の風土への帰属(仏教思想の吸収的同化)を示すというよりも、「教義」のもつ形而上的・権威主義的・権力構造擁護的な性格に対する抵抗という、積極的な意義を持つものとして理解できるのではないか。



明恵の場合には、どうであろうか。
明恵について述べられているのは、彼が、法然ら鎌倉以後の日本仏教においては失われていく、仏教のコスモロジカルな要素を護持しようとして抗った、まったく独特の性格を持つ仏教者だったということである。

このような明恵の厳しいほどの倫理的原理主義には、南都北嶺の寺院群から汚泥のように流れ出てくる僧侶たちの退廃の風潮に、正面から挑戦する意味も含まれていた。彼は自らの身を律しながら、日本仏教から加速度的に消滅しつつあるインド的原理を懸命に防衛していたのである。(p93)


明恵の仏教の特徴は、日本的風土からの「切断」にあるといえるだろう。
その切断によって、彼は仏教本来のコスモロジー、そしてユニヴァーサル(普遍的)な性格を守りぬこうとしたというのが、著者の論旨だ。
この点で、明恵の「意志」の仏教は、日本的な風土や自然を重視したとも考えられる法然の「情緒」の仏教と鋭く対立するものと見なされる。
実際、この二人の仏教者がしばしば対比されて語られる大きな理由は、法然の教えのあり方に対する、よく知られた明恵の苛烈な論難なのである。


民衆など、矛盾に満ちた社会に生きる人々への布教と救済を、おそらくはその信仰の核心に置いていた法然とは違って、明恵には社会的な現実や他者の意識が希薄であるように思える。
この本を読んでいて明恵がユニークだと思ったのは、彼にとってインドが、はるか遠方にある地理上の空間ではなく、彼の精神世界のなかにだけ存在する場所として、周囲の現実からまったく隔絶されたものだったということである。

明恵の精神世界では、インドという国は、もはや地理的な場所ではなかった。そこに象徴的な意味があったからこそ、彼は天竺渡航を計画したり、インド僧の現れる夢を見たり、高山寺の裏山をインドの仏蹟に見立てたりしたのである。(p45)


明恵の場合、この精神世界のリアリティの方が、民衆が呻吟する現実社会のリアリティよりも強かったということになるだろう。というよりも、明恵の宗教的な世界観においては、この独立して構築された精神世界の枠組みのなかに、平安末期の日本の社会的現実もすっかり包みこまれてしまう。
この精神世界の問題を解決することこそが、現実の問題を解消し、ひいては万人を救う唯一の道だと、明恵には思われたのだろう。


こう考えてくると、明恵が拒絶し切断したものは、特定の自然とか風土といったものではなく、ある現実の認知の仕方であり、信仰者である自分の実存と、外部の事象(現実)とがどのように関わっているかという考えの枠組みにおいて、法然とは決定的に違っていたと言えるのではないだろうか?
著者は、あとがきにこう書いている。

書きはじめた時は人間的に老練な印象を受ける法然に比べて、明恵の万年青年のような性格の未熟さが気になったが、結論に近づくにつれて、まさにそれが日本の仏教者に欠けている若々しい理想主義と意志力であることを、改めて思い知らされた。


たしかに、明恵の思想には、自然や風土の抑圧性を切断する、強い魅力があると思われる。その限りで著者が言うように、彼の思想は近世以後の「日本的仏教」のあり方への、あるいはもっと一般的に、日本に独特な仏教の堕落(権力・権威化)の仕方に対する、(法然とは別の形での)鋭いアンチテーゼとなっているのかもしれない。
だがその魅力が、特定の風土や自然のみならず、ある種の現実認識の可能性の放棄、自分の宗教的実存が外部の他者(民衆)の生と同じ位相において、関わってあることの可能性の放棄を代償として成り立つものであるということも、また言えるのではなかろうか。




ここで法然に戻ってあらためて考えると、彼にとっての民衆とは、いったい何だったのであろうか。
法然という宗教者の実存から離れて、それがあるわけではない。むしろ、信仰に向かおうとする自分自身を突き詰めていったところに、どうしても「悪」から逃れることのできない、人間のありのままの生き様としての「民衆」や「悪人」が見出されたのではなかったか。
そうであるならば、「極悪の人間」を救う教えこそ、ほんとうに人間を救う教え、「自分のなかの万人」を救える教えであることになる。
罪にまみれ、功徳を積むことさえも出来ないような、末世に生きる生身の人間を救いうるほんとうの教え。
法然にとっての念仏(専修念仏)とは、そういうものだったと思う。
それは、レトリックでありながら、もはやたんなるレトリックを越えるものだったのだ。


ところで著者は、この二人の対立的な仏教者の、興味深い共通項を二つあげている。
その一つは、どちらも夢を自らの教えの正当性の根拠にしたことである。
明恵と夢との関わりについてはあまりに有名だが、法然のまた夢で善導に出会った「二祖対面」の体験により、自分の専修念仏の教えが浄土門の伝統にかなうものであるという確信を得たと語っている。
そして、もう一つの共通項は、二人が、女性たちとの関わりのなかで自分の教えを深め、あるいは形成していったと考えられることである。
それは究極的には、この二人の仏教者がともに、それぞれ形は違いながらも、現実の社会や、彼ら自身のなかの男性性によって抑圧されている、より人間的な存在に思いを寄せ、それに寄り添う態度を信仰の核心としたことを、示しているのではないかと思う。