教育基本法改正案成立にあたって

人生でいちばん苦痛なことは、夢から醒めて、行くべき道がないことであります。夢を見ている人は幸福です。もし行くべき道が見つからなかったならば、その人を呼び醒まさないでやることが大切です。(魯迅「ノラは家出してからどうなったか」岩波新書魯迅評論集』竹内好訳より)

一生が過ぎてしまった、まるで生きた覚えがないぐらいだ。(チェーホフ桜の園新潮文庫 神西清訳より)


間違いなく日本の行く末を左右するだろう、いやそれ以前に、多くの子どもたちの生の形と行く末に決定的な影響を及ぼすだろう、教育基本法の改正案が、国会を通った。


この問題について、連日メルマガで強力なメッセージを発し続けていた竹山徹朗さんが、『マトリックス』のカプセルのイメージを連想すると今日書いていたが、ぼくの持つこの改正がもたらす世界のイメージも、やはりそれだ。
そして、『「繋がれている状態」の方が「現実を知った状態」よりも幸福じゃないか』という問いの痛烈さも、やはり同様に頭に浮かぶ。
だがそれは、ぼく自身が、自分をカプセルのなか、チューブに「繋がれている状態」であると自覚していることにおいて、である。
じつは、今回の国会での動きに対して、ぼくはなにも具体的な反対行動をとらなかった。せいぜい、竹山さんのような何人かの人たちの熱心なメッセージに時折目を通し、それをブックマークしてたぐらいのものである。ネットでの反対書名も、結局は行わなかった。昨日の時点でも、自分の学校時代の体験を踏まえてなにかここにメッセージか感想を記しておこうと思ったのだが、それもどうしても書けなかった。
それは、ぼくが生の大部分を、カプセルのなかで夢を見ながら暮らしているということを意味しているのだと思う。
そういう者として、ぼくは今回の法改正への動きを見ていた。


ぼくにとっての学校は、ただ息苦しいというだけの場所だったが、その「息苦しさ」を肯定するわずかな余地が、ぼくが知っている「学校」にはあったのだと思う。それは、外側の社会の論理や権力と、学校生活との間にあいたわずかな隙間だった。その隙間で育まれるものは、人が生きるうえで、ぼく自身が細々と引き継いだところからは想像もできない、大きな価値と可能性を持つものだったと思う。
その隙間は、消える。
子どもたちの命のため、いやすべての人々の生のためにかけがえのない働きを果たしてきたその隙間が消えることを、ぼくは半ば夢のなかで容認したのだ。
この事実は、これから自分のなかに残していくだろう。


この改正は、より深くカプセルに入って夢見る人々と、そこからはみ出していく人たちを生み出すだろう。その二つのあり方の間の振幅が、これからの世の中のダイナミズムを作っていくのかも知れない。もし、ありうるとすればだが。
希望は、そこにある。
魯迅は、夢を見続けることを奨励したのではなく、夢を見る力を糧にして現在を生き抜く(闘う)ことを唱えたのだと思う。
ぼくができること、やるべきことは、この夢と現実との間の往復運動に関わっているのかもしれない。
夢を見るように醒め続ける、いや、夢のなかで普段に目覚める夢を見続けることか。
生きている限り、そこであがき続けたい。ふさがれた隙間のあったことを、忘れないために。