『センセイの鞄』その2 距離

センセイの鞄 (文春文庫)

センセイの鞄 (文春文庫)

きのう、この作品のことを長編小説と書いたが、実際には中篇ぐらいの分量だ。これを「長編」と感じるのは、最近のぼくが長い小説や本を読まなくなった証拠だろう。


それから文庫本の見開きを見てわかったのだが、この作品の初出は文芸誌ではなく、以前平凡社から出ていた月刊誌「太陽」らしい。99年7月号から2000年12月号まで連載されたと書いてある。調べてみると、「太陽」はその2000年12月号を最後に休刊になったらしい(「別冊太陽」は残った)。
この雑誌は長い歴史を持っていたはずだが、この小説が載っていた頃には確か中高年の男性を主な読者層にしていた。編集者(この頃は嵐山光三郎だったか?)は、その読者層をひきつけることを狙って、作家にこの小説を書いてもらったんだろう。作家も、かなりそれを意識したかもしれない。
期待にこたえてこの小説はずいぶんな話題となったが、年老いた「太陽」の休刊を救うことはできなかったようだ。休刊になる最後の号であの結末を読んだ編集者や、長年の読者の人たちは、どんな心境だっただろうか。
いやひょっとして、川上弘美の頭のなかにこの老舗雑誌の休刊というスケジュールが強くすりこまれていて、それが小説の展開にも影響したとか?
それにしても、単行本になりベストセラーとなったこの小説は、男性、女性、どちらの読者により好まれたんだろう?


本題に入る。
この作品のキーワードのひとつは、「距離」、もしくは「遠さ」とか「近さ」といった言葉である。
ツキコがセンセイとの飲み屋での交際において、「心地よい距離」を重視していることには、さきに少し触れた。
この「距離」に対する繊細な感覚が、ツキコの生き方の全体を大きく規定していることは間違いないようだ。たとえば、「お正月」と題された章では、ツキコの過去の恋愛が回想されているが、恋人の部屋に行って手料理を作ったり、自分の部屋に招いて食べさせたりということをすると、「ぬきさしならぬ」関係になってしまうのではと恐れて、それが出来なかったというふうに書いてある。
この人は、他人とそういうぬきさしならない転移的な関係に陥ること、つまり「距離」が乱されてしまうことに対して、人並み以上の恐れを感じているので、自分は恋愛には不向きな人間であると考えてずっと生きてきたのである。
これは、一般的な物語とか構造(システム)に対する違和感のあらわれと考えていいと思う。


しかし、センセイに対する恋愛感情が強まるにつれて、他人(センセイ)との「距離」に対する感覚は当然彼女のなかで揺らぎはじめる。それまで、「近さ」とも「遠さ」とも無縁な「心地よい距離」をおいて関わってきたセンセイの存在が、ある種の「遠さ」において、つまり転移によって生じた「距離の揺らぎ」の感覚において意識されるようになるのだ。
「花見 その2」と題された章では、複数の恋愛のライバル的な人物の出現によって、センセイの存在がツキコのなかで「遠さ」として表象されるようになる瞬間が描かれている。花見の場で会った高校時代の同級生の男に口説かれたツキコは、不意にこう感じる。

ここに、この道に立っている今のわたしは、センセイから、遠かった。センセイとわたしの遠さがしみじみと身にせまってきた。生きてきた年月による遠さでもなく、因って立つ場所による遠さでもなく、しかし絶対的にそこにある遠さである。


この「遠さ」の内実がなにかということよりも、ツキコがセンセイを「遠さ」においてとらえはじめたということが重要なのだ。それは、彼女のこれまでの生き方を支えてきた他人との「距離」に対する厳密で保守的な感覚が崩れはじめたことを意味する。
センセイは、ツキコにとって、その「遠さ」を縮めることのできないミスティックで想像的な対象として存在するようになり、そのことによっていわば社会的に欲望が醸成されていく。センセイは、いつも遠すぎるか近すぎるかする存在であり、適切な距離におさまってツキコを安定させるということがない。


要するにセンセイに対する転移が強まっていくということだが、この小説で特徴的なのは、恋愛の成就によってこの「遠さ」が解消されるというフィクションの結末が、周到に引き延ばされ続け、最後には夢のなかに消失してしまうかのように書かれていることだ。恋愛は結局成就するにはするのだが、フィクション、つまり物語の社会的な欲望の方は、たくみにその実現をはぐらかされている。
ツキコが、念願だったセンセイとの肉体関係を実現する寸前までいく「島へ その2」という章の末尾では、事がそう運びそうになったとたんに二人は布団のなかで深い睡魔に襲われて、次の段落を最後に夢幻のなかへとストーリーが移行してしまう。

かもめが海の上で鳴いている声が、眠りに入ろうとする耳に、かすかに聞こえてくる。センセイ、眠っちゃだめです。そう言おうとするが、もう言えない。センセイの腕の中で、深い眠りにひきずりこまれてゆく。わたしは絶望する。絶望しながら、センセイの眠りから遠く離れた自分の眠りの中にひきずりこまれてゆく。かもめが何羽も、朝の光の中で、鳴いている。


「距離」が崩壊した後の、このぎりぎりの絶望と眠りのなかに、たぶん「関係」にとってもっとも重要な何かが隠されている。
作家川上弘美が夢幻の世界を描くことにこだわるのは、やはり物語(構造、システム)に対する「抵抗」のひとつの形であるように、ぼくには思える。


(このシリーズ、次回で終わる予定です。)