臍(へそ)について

ぼくは記憶にないのだが、ドストエフスキーのある小説(たぶん、『永遠の夫』だと思う)のなかで、登場人物の一人が中年か初老の未婚の女性を指して、「ごらん、ああいう人がこの世の中の臍なのだよ」と言う場面があるそうである。
栗田隆子さんの「ないものとされたもの」をめぐる文章を紹介しようとした前回のエントリーを書きながら、思い出していたのは、その言葉だった。


ロシア語でのもともとの単語がどういう言葉なのか分からないが、世の中の「臍(へそ)」というのは、面白い表現だ。
それは、世の中を人体にたとえて、その「中心」という意味だろうか。それとも、もっとも目立たない、またくぼんでいる場所、という意味か。あるいは、人体のなかで一番弱く、柔らかいが、いろいろな部分をつなげる役目を果たしている場所、ということか。


ともかくそれは、ひとつの「場所」のことを指しているのだろう。
目立たない、もしくは目立たないということにされている場所というものがあり、そこに誰か、なんらかの属性を持った人がすえられることになる。
そこに、その人(たち)がすえられるということ自体には、本当は根拠はない。
だからその属性に、もともと特別な意味があるわけではないのだ。
ただ、その「場所」に置かれたということ、置かれているということからは、たしかに何かの意味が生じる。
だから、そこに「特別な意味がない」といってすませるのも、少し違うのである。
その「場所」自体が持っている、力のようなものがあるのだ。


しかし問題は、その「意味」や「力」というものをどういうものととらえるか、ということだろう。
「へそ」というものの特徴は、大事な場所であるが、その存在にどういう積極的な意味があるのか、よく分からないということがある。また、それは人体のなかで、目立たないだけでなく、弱い場所、柔らかい場所である。そして、その、意味を持たないこと、もっと言えば「不在であること」、また、見えにくく、弱く、柔らかいといった諸特性によって、体の各部分をつないでいる「場所」だともいえる。
だとすれば、この「場所」から生じる「意味」とは、自分がその「不在の位置」にあるということ(「ないものとされていること」)をとおして、その事実を見つめることを貫くということによって、それは同時に「弱さ」と「柔らかさ」を決して否認しない、手放さないということでもあるのだが、他人たちの「弱さ」や「柔らかさ」へと呼びかけ(言い換えれば、そういう存在としての他人を見出し)、つながっていこうとする、あるいは「柔らかさ」の共有をおしひろげていこうとする、そういう性格を持つもののはずである。
それは、人びとをそれぞれの特殊性のなかに閉じ込めることによって社会を形成しようとするのでなく、自分の存在をとおして人びとをある「無力さ」のなかへ、裏返して言えば他人と混じりあう「力」のなかへと向わせることによって、もともとそこにあるはずのつながりのなかに立ち戻らせようとする。
「へそ」は、そのようなものとして、社会を構成する別の原理になろうとする。というよりも、「へそ」はその方向へと向かうことによってだけ、「へそ」でありとおすことができるのだと思う。


これは、社会のなかで「ないもの」という位置に置かれた人が、その不当な事実と向き合い、しかしその「ないもの」という位置が可能にする、つながりにとっての最も大事なもの(弱さや柔らかさ)を決して手放さないようにすることによって、自分の苦しみや悩みや悲しさや怒りといったものを、他人へと開いていくための窓にする、また自分と周囲の他人とからはじまって世の中の全体を変えていくための力に変換する、非常に苦しい態度、生き方をしめしているのだと思う。
自分の苦しみや悩みや怒りを、他人を感受するための、そして他人とともに自分が生きているこの世界を享受するための、たしかな手がかりとすること。