チェーホフの短編から

チェーホフの作品をこれまでちゃんと読んだことがなかったのだが、読んでみるとやはりずいぶん面白い。
19世紀の末頃に、すでにこういうことを書いていた人がいたというのは、驚異というしかない。

たいくつな話・浮気な女 (講談社文芸文庫)

たいくつな話・浮気な女 (講談社文芸文庫)


短編「たいくつな話」は、とても有名な作品だと思うが、彼は29歳のときにこれを書いたらしい。凄い。読んでいるときは、てっきり晩年の作品だと思っていた。といっても、チェーホフはちょうど今のぼくの歳で死んでるのだが。
多分よく知られているように、死をまじかにした老教授を主人公にしたこの小説は、「一般的理念」が持ちえなくなった時代における、人の精神のあり方を描いたものだといえる。
「一般的理念」とは、願望や思想や概念や感情や、人の心のなかのあらゆるものを『ひとつの全体にまとめあげるような一般的な或るもの』だとされる。
教授は老年にいたって、そして死期をまじかにして、自分のなかにそうしたものが存在していないことに気がつき、愕然とするのだ。

そして、もしそういうものがないとしたら、それはとりもなおさず何ひとつないということなのだ。(中略)もし人間があらゆる外界の影響よりも高く力強いものを自分のなかに持っていないなら、(中略)彼のいっさいのペシミズムないしオプティミズム、彼の大小さまざまの思想は、単なる病気の徴候としてのほかは、なんら意味を持たないのである。(p118)


「一般的理念」をもはや持ちえなくなったとき、人間のすべての思想や行動は、「病気の徴候」という以上の意味をもちえなくなる。
チェーホフの作品は、そういう時代の人々の生のあり方を、チェーホフ自身の現実として引き受けたうえで、厳しく正確に描いたものだといえるようだ。


もはや「病気の徴候」でしかありえないような生への転落、その苦悩を、「たいくつな話」の老教授は、たとえば次のように嘆く。

いったい王さまというものの持っているいちばんすばらしい、いちばん神聖な権利は何かといえば、それは慈悲をたれる権利なのだ。(中略)ところが、いまは私はもう王さまじゃない。奴隷にしかふさわしくないことが、私の内部に起こっているのだ。(p66)


「奴隷にしかふさわしくない」こととは、王のような他人への寛容さや思いやりを、もはや自分も人々も持ちえなくなる、ということだ。いつも他人への憎悪や猜疑心や不満や軽蔑やこだわりが、心のなかを占めている。
人の心を一段高いところに維持することで寛容さを可能にしていた「理念」が力を失ったことによって、他人との欲望や感情の絡み合いの泥沼のなかに、心はつねにはまりこみ、不安定さと孤独から脱することができない。
これは空虚でもあり、また苦しい不安な状態である。
ここでは主人公は、その現状を認めたうえで、『何が起こるか、じっとすわって待つことにしよう』と自分につぶやくのだ。


ところで、理念を失った世界では、人は他人への寛容という意味での社会性を喪失し、タコツボのような自分の狭い領域に閉じこもり、趣味と欲望だけをかたくなに固守して、自分の安定を脅かしそうな他人や、世の中の変化をひたすらに攻撃するようになる。
その攻撃の矢は、とくに、女や若者(学生)といった対象に、そのあからさまな台頭という脅威に対する抑圧という形で向けられる。
比較的後期の作品にあたる「殻にはいった男」は、そういう極度に保守的な人物を戯画的に描いたユニークな作品だ。

生まれつきひとり暮らしが好きで、ヤドカリやカタツムリみたいに、なにかといえばすぐ自分の殻の中にはいりたがる人間は、世間にはざらにいますからね。もしかするとこれは先祖返り、つまり人類の祖先がまだ社会的動物になっていなくて、めいめいの穴の中にひとりで住んでいた時代へ逆戻りする現象かもしれないし、あるいは単に、人間の性格のいろいろな変種のひとつにすぎないのかもしれない。(p230)

まあ、一口に言って、この男には、身のまわりに幕を張りめぐらそう、自分を外界から隔離してその影響から隔離してその影響から身をまもってくれる殻みたいなものをつくろうというやみがたい欲求が、四六時中あったことは明瞭です。外界の現実はいちいちしゃくにさわるし、うす気味わるくもある。たえずびくびくしていなきゃならない。(p231)


変化することを極端に嫌って自分の殻に閉じこもって生きようとするこの学校教師は、日常生活において自分がそうした行動をとるだけでなく(それだけなら、問題はなかろうが)、学生の品行や服装の乱れや、女性が自転車に乗るというようなことも、決して許そうとしない。
だが、最大の問題は、こうした人物が繰り返しおこなう保守的な発言のために、周囲の社会全体が萎縮し、殻にはいってしまうということなのだ。

ベリコフみたいなそうした連中の影響で、この十年から十五年というもの、われわれの町ではみんながなにからなにまでこわがるようになってしまったのです。大きな声で話すことも、人と交際することも、本を読むことも、こわくてできない。貧民救済もこわい、貧民に読み書きを教えるのもこわい、というわけです・・・・(p234)


つまり、安定を脅かされることを恐れて「殻にはいって」しまったのは、むしろ社会全体のほうだったのである。


だが個人の問題としてみる場合、この恐怖心、殻に閉じこもることへの志向は、なにに由来するのだろう。
それは、「理念」という支えを失ったことにより、人々が剥き出しの状態で他人との欲望の絡み合いのなかに投げ出されたことによる、圧倒的な不安感が最大の原因だったのだと思う。
だから、その不安に基づく感情は、これまで「理念」の存在によって社会的により強く守られたきた人たち、つまり大人の男性が、もっともひしひしと感じたものだったはずである。
突然襲ってきたその不安に耐えられなくなった男の姿を、魅力溢れる作品「アリアドナ」で、チェーホフはたくみに描き出していると思う。


この小説のなかで話の語り手である地主のシャモーヒンは、物語の冒頭で、女に高い理想を抱いては失望を繰り返す、自分たち男の姿を次のように自嘲的に述べる。

そして結局、われわれは、女はうそつきだ、こせこせしてる、虚栄心が強い、不公平だ、知性が低い、思いやりがない、――要するに、われわれ男にくらべて高いどころか、はかりがたく低いんだという結論に達する。そして不満を抱いたわれわれ、だまされたわれわれに残された道は、ぶつくさ言っては、おれたちは手ひどくだまされた、と方ぼうふれまわることだけです(p181)


「殻にはいった男」のベリコフと同様、彼も結局は「女」を非難する立場に立つことで、自分の位置を守ろうとするわけだが、ベリコフと違うところは、シャモーヒンが魅了されたのは、じつは彼が非難しているような「女」のあり方であり、より正確には彼のそうした願望が投影された像としての「アリアドナ」にほかならなかった、ということだ。

この女の主要な、いわば基本的な特性は、驚くべき狡猾さでした。間断なく、毎分ごとに、しかも見たところなんの理由もないのに、手練手管を弄するのです。(p215)

こんなことを言うのもみな、気に入られたい、人気をはくしたい、魅力的でありたい一心からなのです。(中略)彼女には毎日、なにがなんでも魅惑し、とりこにし、心をうばうことが必要だったのです。わたしが彼女の支配下にあり、彼女の魅力の前では虫けら同然の存在と化することは、かつて馬上仕合で勝った騎士が感じたのと同じ満足を彼女にもたらすのでした。(p216)


もちろんシャモーヒンは、長く振り回されたあげくにようやくこういう「正体」に気づいたというわけではなく、もともとこういう女としてのアリアドナを欲望したのだ。その意味ではたしかに、彼は、本当に対等な位置で他人を愛したとはいえないかもしれない。
だが大事なのは、彼女の「狡猾さ」に魅惑されたいというシャモーヒンの欲望には、「理念」のない時代を生きる人間としての、ある真実があったということだ。
つまりそれは、誘惑され翻弄されることによって陥る不安定さのなかに、自分のほんとうの生の位置を見出そうとする態度であり、じつはそれが、ほんとうの「社会性」というものの大切な芽なのではないかと、ぼくは思う。
そう考えれば、先にあげたシャモーヒンの自嘲的な言葉は、他者に「誘惑されるもの」という絶対的に弱く不安定な立場に自分を置いたときにだけ獲得される、自分の生の真実を、否認し抑圧するものであるといえる。
つまり彼は、「男」であり続けるために、「誘惑者」を排斥する道を選ぼうとするのだ。


きわめて若い時期に書かれた小品「たわむれ」は、このことに関連して大きな示唆を与えてくれる秀作である。
語り手の「ぼく」は、スケート場の丘をソリで滑り降りる最中に、若い娘ナーデンカの耳元に風の音と聞き間違えるような小さな声で愛の言葉をささやくという、サディスティックな悪戯をしかける。

ナージャ、ぼくは、あなたが、好きだ!」
やがてナーデンカは、ブドウ酒やモルヒネに慣れるようにこの言葉に慣れてしまう。この言葉なしには生きられないのだ。丘の上からすべりおりるのがこわいのはたしかに前と同じだが、いまではもう、恐怖と危険が、愛の言葉に、依然として謎のままであり依然として心をなやますあの愛の言葉に、特別の魅力をそえるのだ。うたがわしいのはいつもふたりだけ、ぼくと風とだ・・・愛の告白者がこのふたりのうちのどちらなのか、彼女にはわからないが、どうやら彼女はもはやどちらでも同じだと思っているらしい。どんな器から飲もうと、酔えさえすればそれでいいのだ。(p264)


耳元で聞こえたのが、愛のささやきなのか、風の音なのか分からないという謎が、その不安定さによって彼女を魅惑し、彼女の生にリアリティーを、生き生きした感情をもたらす。急速に滑り降りるソリが生み出す恐怖や危険は、そのリアリティーに「魅力をそえる」ものというより、むしろその源泉のひとつだといっていいだろう。
彼女は、恐怖や謎に魅惑され、支配されるのだが、むしろそれ以上に、それらを自分の生の本来の条件として引き受けるのだ。
「理念」を持たないこと、他人たちのなかで剥き出しの生を生きて、誘惑され、欲望の渦の中で傷つくことは、彼女にとっては、自分自身の生を忠実に生きるための「主体的」な選択なのだ。


チェーホフが、そこに希望を見出そうとした「社会」は、そういう誘惑されやすいもの、弱さや不安定さや不確実さを生きるしかないという、自分自身の生の現実を引き受けるものたちによって形成される空間だったのではないかと思う。
66ページから引いた、「たいくつな話」の一節にもどって言えば、それは他者への寛容という「権利」をみずから放棄して「奴隷」になること、とりわけ、「殻にはいること」によって国家の奴隷となる道を選ぶこととは、対極をなす姿勢だったはずである。


だからこそこの道を選ぼうとする者、そしてこの空間は、不寛容な人々にとっては、もっとも許しがたい存在に映るわけだが。