怒りのエコノミー

書きあぐねている人のための小説入門

書きあぐねている人のための小説入門


保坂和志は、現役作家中もっとも好きな作家で、この本もたいへんいい本だと思うが、次のところには違和感を持つ。


『何を書くか?』という章のなかの「「猫」を比喩として使わない」という変った題のついた文なのだが、ここでは保坂が小説を書くときの方針のひとつとして、たとえば「猫」という描かれる存在を登場人物の心理を説明するための道具(比喩)として使わない、ということが述べられている。
飼っていた子猫が重病から回復することに付き添うというという体験を経た作家は、「猫を猫として書く」ということを自分が小説を書くことの出発点とした、とも書いていて、この「(猫を)道具として使わない」という態度が、小説家として世界と向き合うために決定的な重さをもって選択されたものであることが示唆されている。


そうしたいわば小説家としての倫理的な感覚(と呼んでいいと思うが)から、保坂は、次のように書くのである。

猫や犬を登場人物の心理の説明に使っている小説が日本文学には山ほどある。たとえば武田泰淳の『風媒花』という小説には、野良犬の小犬が出てくる。この小犬は、人間がゴミを捨てるために掘った穴に落ちて死んでしまうのだが、そのやるせなさは、作中人物のやるせなさと完全にシンクロするように作られている。 
 私はこういう身勝手な仕掛けには我慢がならなくて、小犬を道具に使うんじゃない!と思う。これが文章ならまだしも、映画でやられたら撮影に使われたその犬のことが気になって、話の中身なんかどうでもよくなってしまう。(p67)


ここに書いてあることは、一応は分かる。
たしかに武田泰淳の小説には、登場する人間や生き物、それらを含めたさまざまな森羅万象の存在物を、その思想的な作品世界を展開するための「道具」、もしくは駒のように使ってしまう部分があると思う。それは武田が小説を通して現実と向き合うための、ひとつの方法上の選択だったと思うが、ここではそれには触れないでおく。
保坂の観点から見れば、こうした武田の手法・態度は、許しがたいものに感じられるかもしれない。
だが同時に、その批判が的を得ていたとしても、それはそれだけのことだろう、とも思うのだ。保坂の怒りには、「それだけのこと」を越えた、理解しがたい過剰さを感じる。
その過剰さが、ぼくにはどこか不快なのである。





保坂の「猫を猫として書く」、「猫を比喩として使わない」という態度は、「比喩」という言葉を、おそらく意図的に狭い意味に使っているのではないかと思う。
「比喩」には、「説明のための道具」ということにとどまらない、世界の内と外とをつなぐような強い機能があるように思うが、ここでは保坂は、そのような意味で「比喩」を語ってはいない。
保坂が言いたいのは、自分が生や世界をかけがえのないものとして感じることから離れたところで小説を作らない、言葉を操らない、という風な姿勢だろう。
この観点から見れば、たしかに武田の手法には、批判されるべきところがあったかも知れないと思う。


だが、生や世界をかけがえのないものとして感じ、そこに関わるひとつの方法として小説を書いたということは、武田泰淳も同じだろう。生や世界の捉え方が、保坂と同じではなかったということである。
武田泰淳は、「人間は一生に一つのことにしか責任がもてない。自分にとってその一つとは中国だ。」という意味のことを言って、自分がかつて兵士として戦争にも赴いた中国にこだわりながら小説を書いた。『風媒花』は、そのテーマに関しては代表的な作品だろう。
たしかに、その手法(やり方)には多くの問題があったかも知れない。だが、やり方に問題があったということは、その元々の思いが持っていた価値、それが問おうとしたことをまったく消し去ってしまうものではない。





たとえばロシア革命全共闘運動のやり方のなかには、それらが打破しようとしたものと同型の暴力性があった場合もあろうが、だからといって、それらの革命・運動がもともと持っていた考えや思いの真実さ、打ち破ろうとしていた対象(体制)の害の大きさといったことが、無視されてよいということにはならないのだ。なぜならその対象は、今もなお少しも力を弱めることなく、目の前にあるのだから。


ここに大きな歪みのもととなる幹のようなものがある。それを批判し転倒するつもりであった運動や文学も、いつかこの幹に取り込まれ、それと同型の枝葉のようなものに変ってしまうことがある。
だが、批判し転倒しようとしたこと自体が誤りではない。後継者は、同型となる結果を生じたその手法の非をただすことで、悪しき幹に対する批判や転倒の意思こそを、より強めて受け継いでいくべきだろう。
この本分を忘れ、枝葉が幹と同型になっていることだけを難じるなら、その者自身がまた同型の枝葉に変ってしまう。
「捕獲装置」とは、きっとそういうものだ。





問題は、武田が問おうとしたもの、世界の政治的・現実的な歪みということ(つまり幹)に対して、それを問う武田の手法の是非以前に、保坂自身はどのような考えを持つのだろう、ということなのだ。
この現実の次元を、保坂はあえて見ないことにしているように感じられ、それがぼくの感じる不快さ、苛立ちの原因になっている。


ぼくには、保坂の倫理的な怒りは、本来なら武田が対象と考えたものを含む世界の総体に対して向けられるべきものだと思う。いや、元来はきっと向けられているはずなのだ。
だが実際には、保坂が「許せない」という対象は、武田の手法の誤りという、ひどく限定的なものに集中され、発散されて終わっている。
不快なのは、そのことである。


この倫理的な怒りは、真実であり、正当なものでもあるが、差し向けられるべき的確な対象を見失っており、そのことによって不要に増幅されつつ消費されているのだ。