『センセイの鞄』その1 攻撃性

センセイの鞄 (文春文庫)

センセイの鞄 (文春文庫)

この作品は世に出た当初、そうとう話題になったと思うが、今回はじめて読んだ。
三十代後半の会社勤めで一人暮らしをしている女性ツキコ(月子)と、その高校時代の恩師で七十歳近いと思われる「センセイ」と呼ばれる男性との、交際と恋愛の顛末を描いた小説。
それぞれにタイトルがつけられた17の短い章からなる長編小説だが、ひとつひとつの章がよくできたショートストーリーのようにも読める。
とくにタイトルチューンとも呼べる結末の章が、非の打ち所のないほど見事なできばえであり、その感動が強すぎて、そこまでの細部の印象がかすんでしまうほどである。
ここでは、印象に残ったいくつかの章をとりあげながら、この長編についての感想を書いてみたい。


ツキコと先生は、ツキコの高校卒業以来会っていなかったようだが、どちらも常連客になっている「駅前の一杯飲み屋」(といっても、小料理屋みたいな感じだが)で偶然顔をあわせるうち、だんだんと心理的な距離が縮まっていき、同時にツキコのセンセイに対する恋情が深まっていく。
はじめから三つ目に置かれた「二十二個の星」と題された章では、二人の関係の密度が濃くなっていく過程で突発的に生じた小さな諍いが、興味深く描かれている。
ある夜、飲み屋の店内で流されていた巨人阪神戦のラジオ中継を聞きながら、ツキコは、自分が巨人ファンであることをツキコに強調するセンセイの様子が、いつもとは違っていることに気がつく。

「ワタクシは、むろん巨人です」センセイは言い、ビールをひと息に飲み干し、酒に移った。いつもよりも、なんといおうか、熱意がある。何の熱意だろう。


やがて巨人の勝ちが確実になってくると、ツキコが実はアンチ巨人であることを知ったセンセイのツキコに対する当てつけめいた言動と、それに対するツキコの反発が次第に高じてくる。
ツキコは、自分とセンセイとの間の「心地よい距離」が、野球中継という偶発的な事柄によって「無遠慮に縮め」られ、乱されてしまったように感じる。
やがて、次のような事態となる。

「もうその話はやめましょう」わたしは言いながら、センセイをにらんだ。しかしセンセイは笑いやめない。センセイの笑いの奥に、妙なものが漂っていた。小さな蟻をつぶしてよろこぶ少年の目の奥にあるようなもの。


こうして二人は仲たがいしてしまい、しばらくは口をきかなくなってしまう。やがて、ツキコのほうから歩み寄る形で関係は修復されるのだが、その時のセンセイの「熱意」、攻撃性みたいなものが、どこから生じたのかは明示されていない。
ただ、この小さな諍いのエピソードの後に、行を変えて書かれた文章の最初のところで、

そういえば、センセイとばかり一緒だった。
 センセイ以外の人間と、隣あって酒を飲んだり道を歩いたり面白げなものを見たり、そういうことをここしばらくしていなかった。


というツキコの独白が記され、二人の関係の密度が急速に濃くなってしまったことが、両者の心理における何かに乱れを生じさせ、センセイの攻撃性のときならぬ暴発をもたらしたのだろうということが示唆されている。


このセンセイの突然の変貌は、たいへん印象的である。この作品のなかで何度か、センセイは、堤防が不意に決壊しかかるような揺らぎの兆しみたいなものをツキコに見せるのだが、それがはっきり攻撃的なものとして描かれているのは、この箇所だけだ。
この攻撃性の発動には、明らかに性的なニュアンスがあるが、それは仮にこの発動が、恋愛関係にない(たとえば)同性の間に起こったとしても同じことなのだと思う。
両者の関係の密度が濃くなったことによって、このときセンセイの内部に不安定さが生じており、それを抑圧して安定を回復するために、攻撃性が関係の相手であるツキコに向けられたのだろう。センセイの「笑いの奥」にツキコが直感する「妙なもの」は、センセイの性的な自己抑圧の強さに由来していると考えられる。
この自己抑圧の原因と思われるものについては、この後作品のなかでいくつか示唆されることになるが、根本的にはそれはツキコにとっても読者にとっても、謎のままにとどまっている部分がある、という印象を受ける。
だが結局のところ、ツキコは自分に向けられたこの攻撃性のありかを突き詰めることよりも、そういうものを内包した(高齢の男性である)センセイの内面をひとつの「謎」として見出し、その謎との距離を縮めようとすることでセンセイとの恋愛関係を進行させていく方を選んだのだといえる。
つまり、この攻撃性の背後にあるだろう権力関係に光を当てるかわりに、そこに「距離」を詰めることが不可能な接近の対象としての「謎」を見出しつづける道を選ぶのだ。
ぼくにはこの選択は、「関係」についての一種の政治的なスタンスのあらわれのように思える。