闘いの場はどこか

以前、エジプトでの革命(民主化)について、人々は侮蔑されていることに対して怒ったのだろうと書いたけど、今の日本で起きてることを思うと、それに似た感想を持つ。


大災害により、分かっているだけで2万5千人以上の死者・行方不明者が報告されている。また、45万人と言われる人たちが避難所で暮らし、生存さえ危ぶまれるような毎日を過ごしている。人災としか言い様のない原発の事故は、まったく終息する気配がない。
こんな状態なのに、世論やマスコミは、死んでしまった人たち、被害のさなかにある人たちの現実を置き去りにして、「頑張れ、ニッポン」というような空言を繰り替えしている。
この空言に示されているのは、被害を受けた主体である死者や被災者たちの存在の重さから逃れて、これまで通りの経済生活を、その差別的な面や格差を容認し拡大する面を改めることもなく、素知らぬ顔で継続していきたいという、権力者や大衆の浅ましい願望だ。
その経済生活は、生きた人間の日常とは、本当は何の関係もなく、むしろそれを破壊するもの、破壊することを是認するものとしてある。
むしろそれは、生きた人間の、小さな無数の生や死、その生々しい感情の露呈を恐れ、抑圧することによって維持されようとするものなのだ。


この、人間の生死や、ナマの感情とは無縁の経済生活の仕組みを維持するために、日常を生きている人々の感情(怖れや悲しみ、怒り)は抑圧され、虐げられ、また、被災した人たちの悲惨な現実には蓋がされ、多くの人々の死も、避難所の人たちの窮状も、メディアによって切り取られた枠の中にしか存在しないもののように扱われる。
政治・経済の権力やメディアが行い、大衆がそれを追認しつつあるのは、死者と被災者の存在に対する、こうした愚弄であり、また、大衆自身の生身の生と感情への抑圧と侮蔑だ。


この同じ、ぼくたちの生身の生活と感情に対する抑圧と愚弄が、端的に示されているのは、やはり原発をめぐる事柄である。
事故によって被害を受け窮状に置かれるのは、原発を押し付けられた周辺住民の人たちであり、人災である事故の処理のために被曝や爆発の危険と恐怖にさらされるのは、現場の下請けの労働者たちであり、その構図は、事故が発生しなくても、原発という存在の基盤としてあるものだ。
とりわけ日本の原発は、人間の生存や生活に対する、愚弄と侵害の上にしか存在してこなかったものである。
汚染の拡大や避難地域をめぐる政府や東電の不誠実で無責任な対応は、その原発の存在に示された人間侮蔑的な考え方から、必然的に生じているものだともいえる。


被曝の恐怖に怯えて悩んだり行動し、あるいは反原発を叫ぶような態度は、理性を欠いたもの、秩序を乱すものとして、嘲弄されたり非難の対象にさえされる。
だが、反原発の運動の核心をなしてきたであろう、こうした人々の原初的とさえいえる感情(怒り、恐怖、不安、悲しみ)こそ、原発に象徴されるこの国の仕組みが、近代以後一貫して否定・抑圧してきたものであり、ぼくたちが決して手放してはならないものだ。
この意味で、原発(推進)の側も、反原発の人たちも、共に相手(敵)の核心が何であるかを正確に見抜いている。
これは、人間の生身の感情と生活をめぐる闘いなのだ。


今回の事故の拡大の状況を見て、不安と共に、悲しみに震えていない反原発派の人たちはいないと思う。
それは、この人たちが守ろうとしてきたものが、ぼくたち皆の生命や生存の価値であり、それが今、人災と情報の隠蔽によって、決定的に損なわれようとしているからだ。
ぼくたちが知るべきなのは、そのことである。
そして権力の側は、そうした生命や生存を普遍的に守護し尊重しようとする態度こそを、貶め、封じ込めようとするのだ。
権力が画策するのは、この生命や生存の価値を守ろうとする態度と、ぼくたちの生き方との分断であり、その画策の結果として生じるのは、自分の生や感情に対するシニカル(自己侮蔑的・自己破壊的)な心理であり、自分自身を抑圧して、国家の秩序や経済生活の論理に同調していく姿勢である。


ぼくのなかには、原発事故の被害の拡大の報告や、それを隠蔽しようとする政府の目論みの破綻を、悪しき「原発体制」の瓦解をもたらすものとして、どこか心待ちにするようなところがあるが、そうしたシニカルな心理は、権力の画策によってもたらされたものであり、反原発を叫び続けてきた人たちの心情とは縁もゆかりもないものだ。
原発を闘い抜くことによって守られなければならないのは、被害の拡大を心から悲しみ、事態の終息を(責任の追及への前段階として)切望する、人間的な感情そのものである。
その感情こそ、ぼくたちが、いやぼく自身が、継承していかなくてはならないものだと思う。