排外主義者へ

在特会」ら、ノリコさんが通う中学前でデモ行進 「カルデロン一家を日本から追放しろ!」
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200904120944090

声明文 「外国人追い出しデモ反対行動」救援会
http://d.hatena.ne.jp/oidashino/20100413/1239644133


この出来事を知ったとき、「この社会はとうとうここまで来たか」という思いと同時に、「自分がこういう攻撃の対象になったら怖いな」という不安が頭をよぎったというのが、正直なところである。
他人が排除や攻撃の対象にさらされるのを見るのは確かに嫌だが、自分がいつそうなるかも知れないという不安もある。


「デモ」と称して、実際は(中学に入ったばかりの)特定の個人をターゲットにした攻撃に他ならないこの卑劣な行動や、それをめぐる警察の対処の不当さについては、ここではあえて書かない。
書いておきたいのは、別のことである。


今回の「デモ」に限らず、この少女はネット上でも攻撃の対象にされてきたようだ。
ぼくから見ると、排外主義的な考えを持つ人たちが、この人を攻撃の対象としたということは、心理としてはよく理解できる。
それは、自分自身を考えても、もし自分の中で排外主義的な考えや情緒が優位を占めたなら(その危険性は常にある)、間違いなく、この女性のような人を攻撃の対象にしただろうと思う、ということである。


それはなぜかというと、ぼくも何度もテレビや新聞、ネットを通して、この女性の映像や言葉に触れたが、そこには受け手であるこちらの心理を問い詰めてくるような、特別な強さや鋭さが感じられたのである。
つまり、この人の存在は、(受け手自身を不安にさせるという意味で)あまりにも眩しい。とりわけ排外主義的な考えに浸りたい人たちには、そのように思わせるところが、この人の存在にはあると思うのである。
また、マスコミも、その面を強調するような報道の仕方をしてきたと思う(そのことを非難するのではない。)。


排外主義的・差別的な考えを強く抱いている人は、まさにこのような存在をこそ攻撃したい、そして目の前から消し去りたい(排除したい)、と思うであろう。
その存在は、年齢を考えても、その不遇さ、無力さ、無実性のゆえに決して攻撃の対象にされてはならないと(良識によっても)考えられると同時に、その存在に(眩しさの故に)不快や嫌悪感を持つ人間にとっては、気障りで仕方のないものと感じられたはずである。
また、世間全体に、このような境遇にある人を攻撃することは卑劣であり野蛮だという良識のようなものが何となく支配していると感じられるなら、なおさらその抹殺(排除)への衝動は強くなるだろう。
そして、自分自身に対しても、そのような存在をあえてむごたらしく攻撃してみせることによって、自分の思想的な立場が揺るぎのないもの、どんな道義的な非難に対しても動じないものだということを、自身に証明して安堵したいと願望するだろう。


これは、元「慰安婦」の人たちやその支援者に向けられた排外主義者の攻撃や、イラク人質事件の被害者に向けられたバッシングにも共通して見られた心理であろう。
この人たちは、まさに攻撃されるべからざる対象であると思われるからこそ、攻撃の対象となったのである。


もちろんこうしたことは、あくまで一般的な心理の問題であって、今回のような具体的な行動(暴力、攻撃)を起こすということの重大さとは、混同できない問題であろう。
だが、そういう一般的な心理の側面が原因となって、その現われとして、このような露骨な行動や言動が生じている、ともいえる。


こうした排外主義的な暴力を、露骨な形で実行する人は、もしくはそれに身を任せてしまう人は、「良識」の枠の中に留まろうとする人(自分のことだが)たちよりも、敏感というか、正直なのかもしれない。
この人たちは、自分を不安にさせるものに敏感に反応し、そこから逃れたいという感情を行動に移しているからだ。
それに比べると、ぼくなどは、眩しさを感じさせる存在、自分をいわば倫理的に脅かすような存在を目にしても、その動揺をごまかそうとする。いわばそれを抑圧してやり過ごす方法を、身に付けているのだと思う。


だが、こうした露骨な行動によっても、あるいは抑圧やごまかしによっても、眩しいと感じられる存在のもたらす不安や居心地悪さが、本当に消えるということはないであろう。
そこでなしうる行動としては、こうした存在を前にしたときに自分のなかに不安や不快さが生じるというその事実を否認せずに、その不安や不快さと共に、少しでも光の方に向かっていこうとするということ、そういうこと以外にないのではないかと思う。
自分自身が、その光の方へと、少しでも変化していくしか、本当に楽になる道はない。


これは、排外主義的な人たちにそう言いたいだけでなく、自分自身に言い聞かせる意味でも、こう書くのである。