ゴダール『アワーミュージック』


http://www.godard.jp/


ジャン・リュック・ゴダール監督の新作。
いつものとおり、音楽の流し方と切断の仕方が素晴らしい。
そして、近年の彼の作品にはあまりなかった、社会の現実や政治的状況に対する明瞭な言及に接することができる。
はっきりは語られていないが、例によって「反米」のスタンスも明白だ。


ゴダールの映画は、構成が複雑で展開が早いことと、テクストからの難解な引用を含む断片的な言葉のおびただしい挿入を字幕で読むのがたいへんなために、一度見ただけでは筋を把握しがたい。
この映画は、これまでのゴダールの作品に比べると、ずいぶんとっつきやすい話の展開になっているのだが、それでもぼくは劇場で見ただけでは十分内容を理解できず、上記の宣伝サイトに頼ったところが多い。
そういう映画であっても、いつも彼の作品だけは見たい、と思うのは、その映像(イメージ)、音楽、言葉、それら全ての有と無が作り上げる圧倒的な力とかっこよさのためだろう。


三部構成になっていて、「地獄」と題された第一部では、映画の歴史のなかで撮られてきたドキュメントとフィクションによる戦争の膨大な映像が映し出される。
「煉獄」と題された第二部がメインなのだが、ここでは戦火の傷跡が生々しく残るサラエボを舞台に、「本の出会い」というイベントのためにこの土地を訪れた映画監督ゴダールサラエボでの「和解」と第二次大戦中のある出来事に強い個人的関心をもつイスラエル人の若い女性ジャーナリスト、自殺を考えつづけるユダヤ系の女子学生オルガ、パレスチナ人の高名な詩人マフムード・ダーウィッシュ、三人のネイティブアメリカンの男女、といった人々が交錯して映画がすすんでいく。
オルガが自爆テロに似た行動(ここは、解釈が微妙)をとってイスラエルで射殺されたとの報が届いた後、第三部の「天国」の章に入る。ぼくは、この静かで柔らかいパートが一番印象に残った。


ゴダールが、現実の政治や社会の動きに対して、これだけはっきりした言及を行ったのは、70年代以来ではないかと思う。いわゆる「パッション以後」のゴダール作品から見ると、大きな変化のようにも見えるし、技法の過激さという点では後退しているという見方もあるかもしれない。
たしかに、この映画は、ひと言でいうと「平明」だ。モーツアルトの晩年の楽曲のような感じがある。
だが、それがゴダール自身の老いによる力の衰えのせいだといいきれないのは、作品中に、次のような言葉が出てくるからだ。

今日、われわれの貧困は明らかだ。文化が廃墟に他ならないことが分かったこの時代には文化を忘れるべきだ。われわれは無から何かを作り出すべきなのだ。火事が起きているのに家具を運ぶのはばかげている。


この言葉のナレーションを背に街路を歩く鮮烈なシーンの後に、オルガはイスラエルにおもむき、上記の行動をとって死亡したことが知らされる(いわゆる「自爆テロ」に対するゴダールの考え方は、上記のサイトでのインタビューで明快に語られている)。
では、ゴダールがここで立っている場所は、文化(映画)に対する虚無的な考えなのか。この映画の全編にたしかに流れている「和解」的な雰囲気が、なにを意味するのかははっきり分からない。ただ、死や虚無、文化のある種の不在ということに対して、今のゴダールは必ずしも否定的に考えていないのではないかという気がする。


第二部のなかで特に印象的なところのひとつは、サラエボの廃墟のような建物のなかで、書き物を続けるヨーロッパ人の作家(ゴイティソーロ)に、唐突にあらわれたネイティブアメリカンの男女が、「そろそろわれわれは出会うべきではないか。破滅の淵に立つよそ者同士として」と語りかける場面だ。
この言葉が、ヨーロッパ的な文化のあり方に対する現在のゴダールの距離感につながっていて、それが死に対する「和解」の表現としての技法上の「平明」さをもたらしている、という可能性はあると思う。


ところで、ゴダールの映画を見る大きな楽しみのひとつは、登場する若い女性が常に魅力的であることだ。特別有名な女優を使うわけではないのに、いつもハズレがないのだ。これは、『勝手にしやがれ』(59年)の頃からずっと変わらない。たいしたものだと思う。
この映画では、オルガを演じた女優さんよりも、イスラエルの女流ジャーナリストを演じたサラ・アドラーの顔のアップが、ぼくはすごくいいと思った。