これが黙っていられるか

当分何も書かないつもりだったが、場合が場合なので、そうも言ってられない。
これは、ぼく自身の怒りの感情の表明である。
「冷静」でなどいられるか。
テレビを見てたら、拉致被害者の家族の人が、「われわれ日本国民は、もっと怒らねばなりません」というふうに言っていた。ぼくも同意見だ。ただし、怒りの対象が違うが。


http://mainichi.jp/kansai/archive/news/2009/04/06/20090406ddn041030007000c.html

http://mainichi.jp/kansai/archive/news/2009/04/06/20090406ddn041030006000c.html

在日コリアンが多く暮らす大阪市生野区の人々には戸惑いが広がった。コリアタウンの商店街「御幸通東商店街振興組合」の理事長、井上修範(のぶのり)さん(45)は父が韓国籍。「北朝鮮は周辺国が納得する物事の進め方をしてほしかった。非難されたり言い訳をしないといけない日本の朝鮮籍の人たちの立場も考えてほしい」と訴えた。10年前に朝鮮籍から韓国籍に変えた精肉業の男性(60)は「北朝鮮は母国だが、こういう事態が続くから国籍を変更せざるを得なかった。(在日コリアンを)困らせるのはやめてほしい」とうんざりした表情。キムチ店従業員で朝鮮籍の女性(63)は「私たちが日本で暮らしづらくなる。北朝鮮は何を考えているのか」とまくし立てた。


ここにある言葉は、もちろんすべて「実感」であり「本音」だろうと思う。
本心を隠してこう言ってると憶測する根拠はない。
運動団体の人などの場合には、自分が権利や安全を預かっている人たち(子どもなど)への配慮もあり、日本のメディアの取材に対しては慎重な発言を余儀なくされる場合もあろうかと思うが、それ以外の市井の人たちであれば、やはり感想を聞かれれば素直にこのような言葉が出てくるのであろう。
たしかに、日本と朝鮮半島をめぐる政治状況は、市井の、まして「在日」の人々にとっては、あまりにひどいのだ。


だが、「実感」というものは、政治と社会の力によって否応なく作り上げられていくものである。
「私たちが日本で暮らしづらくなる。北朝鮮は何を考えているのか」、「(在日コリアンを)困らせるのはやめてほしい」といった言葉を実感として言わせているのは、日本が大国としてその構成に大きく関わっている東アジアの政治状況の悪さであり、そして今回のような事態が起きればただちに在日の人々が「暮らしづらくなる」ようにさせてしまう、日本の社会の元来排外主義的なあり方なのだ。
その政治や社会のあり方が、巨大な日常的な圧力としていつも在日朝鮮人には圧し掛かっており、それが上のような「実感」をこの人々に抱かせる、重要な要因になっている。


この記事に限らず、テレビや新聞で、こうした在日の人々の「実感」が伝えられる時、報じる人、またそれを受け取るわれわれのなかに、どれだけその、自らの暴力性の自覚があるであろうか。
そういう自覚もなく、ただ取材して記事を作るだけなら、それはそのこと自体が、取材対象の人たちへの暴力であるといいうる。無論、それを安易に消費しているわれわれも同罪である。
そして、日本の新聞・テレビはこれらの言葉を、人々の素朴な「実感」として伝える一方で、概ね政府の尻馬に乗る形で、今回の騒動を大々的に報じるばかりか、これを機として日本の国防論議が「深まる」ことを歓迎してさえいるではないか。
これで一体、上記のような在日の人たちへの取材報道の仕方が、中立的なもの、罪のないものだと言えるのか?




また、これら在日朝鮮人(在日コリアン)の人たちの意見ばかりでなく、記事には拉致被害者家族の人たちや、被爆者団体の人たちの声も掲載されているが、それらの声の重みを真剣に受け止めるなら、日本のメディア・報道に携わる人々は、なすべき重要なことがあるのに気づくはずだ。
それは、「危機」を煽り立てる国のあり方に同調せず、大きな影響力をもち、それ以上になすべき多くのことをせずに来て、いまその延長上で断じてなすべきではない多くのことを再びなそうとしている自国のあり方こそを、批判して報じていくということである。





ここで拉致問題について一言するなら(現在のこの運動のあり方については、ここでは触れない)、日本の一般大衆が、もし本当に拉致を重大で許されない国家暴力、犯罪と考え、その重さを感じているのなら、日本が植民地統治時代に朝鮮半島はじめ他国・他地域の人々に対して行った巨大な暴力について、等閑視できるわけがないはずだ。
だが、実際にはそれがほとんど等閑視され、「拉致事件」のみが一方的に断罪の対象とされてるところを見ると、日本人が拉致のような国家暴力を「ひどい」「許しがたい」と思うその心情のなかには、差別的な感情、言い換えれば理屈ぬきで他者を貶め支配したり攻撃や排除の対象にしておこうとするような感情が、含まれているに違いない。これは、道義的な非難以前に、論理的に考えてそうであろう、ということである。


さらに言えば、われわれのそうした人間に対する差別的な感情のあり方、思考形式こそが、拉致という国家暴力を生み出すような、この地域の国際情勢の歪んだ緊張を生み出した大元の要因だともいえる。それは日本国家のみならず、朝鮮半島の南北においても、国家暴力による人命・人権の軽視を本質とする政治権力を作り出してきた、その変革されざる源だと言えるのである。
それなら、拉致被害者の人々は、元をただせば、われわれがそこに依拠して支えてきた、この日本の国家と社会の差別的・人間選別的・排外的な性格の、間接的な犠牲者と言ってよいではないか。
まただからこそ、拉致事件発生から長きにわたって、この非人間的な国家(日本)は、この問題の存在を無視し続けてきたのだろう。



今考えるべきなのは、次のことである。
たとえば、日本のこの大地の各所に、植民地時代に日本に連れてこられたり、やってこざるを得ない状況で渡ってきて命を落とし、土に埋もれたままにされている朝鮮人やアジアの人々の遺骨が、どれだけあると思うのだ。
そんな状態のままで放置しておいて、他国の政府が非人道的な行為を行うことを批判する言葉に、どんな説得力があるというのだ。
かの国の政府の非人道性は、まさしくわれわれの国の引き写しではないか。われわれこそが、その元を作っているのだ。
自らそれをたださずして、どんな平和も和解も、訪れる道理がないではないか。


せめて、この大地に眠っている人々の骨を弔い、鎮魂し、遺族の気持ちを癒すように努力せよ。
そのことばかりでなく、あなたたち(朝鮮人)を、自分たちと同じ人間として扱うのだということを示せ。
そうした態度以外に、どんな対話の糸口がありうるというのだ。
そして、相手を同じ対等な人間として扱うという、その態度の実践のなかで、他人にそれを求めるばかりでなく、われわれ自身の生こそを始めなおせ。




終わりに、最近読んだ田浪亜央江著『<不在者>たちのイスラエル』の、印象深い一節を引いておく。
先住者であるパレスチナの人々を追い出した後に作られたキブツの人々に対する思いを綴ったこの文章は、またわれわれ日本の読者にも向けられた言葉として読みとられるべきものだと思う。

現在のダリヤキブツの住人たちにしても、ほとんどがパレスチナ人との平和的共存を望むと答える人々だろう。しかし、主人と奴隷の関係、奪った者と奪われた者のありようをそのまま維持した状態での「共存」を望むのは、奪った方の人たちだけだ。こういう話になると、ではここから出て行けというのか、という反応が良心派のユダヤ人から返ってくることが多い。しかし彼らに対し、このキブツから出て行けとは誰も言わないし、言っても意味がない。言えるのは、例えば「ダーリヤッ=ラウハー」の住民がどのように追われたのか、今どこに住んでいるのか、知ろうとして欲しい、関心を持って欲しい。彼らやその子どもたちを探し出して欲しい、彼らを訪ねていき、彼らの話を聞いて欲しい。彼らに謝罪して欲しい。彼らを自分の家に招き入れて欲しい。彼らの尊厳や権利の回復とはどのようなものなのか、考えて欲しい。他の人とも話し合って欲しい。それは一回限りのことではなく、ここに彼らが生き続けようとする限り続くことだし、彼らの子どもたちも引き継がなくてはならないことだ。そしてもちろん、これ以上の被害者を出さないで欲しい。イスラエル占領政策を変えるよう努力して欲しい。(p69〜70)


「不在者」たちのイスラエル―占領文化とパレスチナ

「不在者」たちのイスラエル―占領文化とパレスチナ