イランとイスラエル・「対話」の政治

イスラエルの総選挙と、イランの大統領選挙が近日行われるということで、今週日曜日(8日)のNHK「海外ネットワーク」では、この二つに国の状況を並べて報じていた。
これも全部は見られなかったので、一部分についての印象になるが。


前半では、そのイスラエルの総選挙をめぐる情勢を紹介してたと思うのだが、そこは見られず。ぼくが見たのは、いま世界的に話題になっているらしい、レモン農園を舞台にイスラエルパレスチナの問題をとりあげた映画の監督(イスラエルの人)がインタビューに答えているところで、彼は「国論が右傾化し、対話を主張する勢力が弱体化してどうにもならない」というようなことを言っていた。
たしかに議会の状況をみると、そういう感じで、(これは日本もよその国のことは言えないと思うが)選挙結果も強硬な世論を反映したものになるのだろう。
この後、防衛大学校の先生が出てきて、パレスチナ情勢の解説をしたが、これはこれまで通りの日本のマスコミの論調と同じで、どう見てもぼくには「イスラエル寄り」としか思えないものだった。まあ、それはいい。


続いてイランの話になり、最近ではアメリカとの対話路線をすすめるべきだという若い世代の声が広がっていることが紹介され、友人同士がこの問題で議論を戦わせる(カメラの前で)様子も紹介されてた。
画面を見る限りでは想像以上に自由な議論が行われてると感じたが、ただ「自由な言論」とはいっても、自国の政治や社会の閉鎖性を批判するというより、「アメリカと仲良くしよう」という意見なんだよなあ。
アメリカの言いなりにならなかったのは、こういう国がやってきたことのなかで一番評価すべき部分だと思うけど、そこを「見直す」ことが「自由な言論」だという報じられ方は、やはり変な話だと思った。
「そこは直さなくていいから」と思うんだけどね。
ただそれも、「対立ではなく対話を」という大きな政治的コンセプト(オバマ政権の)があるから、その枠に沿うように考えると、「そこが一番大事だ」という話になるのであろう。
そう考えると、これはまったく政治的な報道だ。


実際、イスラエルとイランを並べて報じたこの特集の最後に、司会の女性キャスターは、「この二つの国を孤立させず、対話の場に引き出すことが、中東の平和と安定のために大事だと感じました」と、「感想」を述べていた。
まあ、アメリカの仲良しのイスラエルと、「悪の枢軸」の一翼を担うイランとが同列に並ぶというのは、ブッシュ政権時代では考えられないことで、たしかに「チェンジしたなあ」と思わないではない。
前の政権がそれだけ無茶苦茶だったということではあるが、オバマ個人にはたしかに中東問題のごまかしでない解決を求める気持ちがいくらかはあるのだろうと思われ、それが「対話」を強調する国際戦略の変化になってあらわれてると、希望的に考えたくはある。
だが現実の政治力学においては、「対立から対話へ」というアメリカの戦略の変化は、やはり自分たちの権益を守るための欺瞞に満ちたものであることを確認しておくことが、現状を見誤らないためには大事であろう。


イスラエルパレスチナの問題を、イランとアメリカの対立と同列に論じて、「対立から対話へ」の転換を強調することは、ちょうど朝鮮半島の南北の対立と、日本が統治していた時代の日本と朝鮮の民衆との対立、もしくはアパルトヘイト時代の南アフリカの白人と黒人の関係を同列に論じるような欺瞞である。
そもそもイスラエルパレスチナの関係は、国同士の対等な関係ではなく、一方的な占領にもとづくものではないか。
また、力関係をいっても、アメリカの軍事力に包囲されているイランの立場(「対話」の視点を重視する意図からか、NHKの番組では、このことは丁寧に紹介していたが)と、地理的には「包囲」されてるように見えても、実際には圧倒的な軍事力で周囲のアラブ諸国を粉砕し続け、それゆえに占領地の拡大と維持を続けていられるイスラエルの立場とは、どう見ても同じに語れるものではない。
まあ、要するに全然次元の違う話のはずなんだけど、そこを同じように語ることで事態の本質を隠してしまうというのが、この「対話」戦略の意図するところであり効果なのだ。


この番組のような報道は、そういうアメリカの今の世界戦略に適合してる、ということをいいたかったのだが、では、こういう「和解」の必要性を主張する論を一概に「欺瞞だ」として斥けられるかどうか。
それは分からない。
たしかに、どんな不均衡な対立であっても、それはすべて暴力的事態には違わないのだから、「和解」の必要がある、という(宗教的な?)立場はありうるようにも思う。
だが、現実に行使されている暴力というものの多様で入り組んだ形態から目をそらすなら、こうした正論は、容易に政治的戦略の道具に変ってしまうのではないか、とも思うのである。