『歌うつぐみがおりました』

グルジア出身の映画監督オタール・イオセリアーニが、まだ母国にいた70年に撮った映画。イオセリアーニは、西欧に移ってからも『月曜日に乾杯!』や『素敵な歌と舟はゆく』などの傑作を撮っているが、ぼくはこのモノクロ作品が一番好きだ。


主人公はオーケストラでティンパニー奏者をしているのだが、とにかく全てに中途半端というかいい加減な人で、演奏中に会場を抜け出して友達と遊び、曲の最後のティンパニーが鳴らされる瞬間に持ち場に帰ってきてギリギリで一打ちして間に合わせる、といった調子である。憎めない性格のため、そんな彼をかばう仲間たちも多いが、あまりにも目に余るので首にしようという話が持ち上がり、弁明を求められるのだが女の子に気を取られている間に、その機会も失ってあっさり職を失ってしまう。
仕事だけでなく、友達との付き合いも、女性関係も、全てが中途半端であり、木の枝から枝へと飛び移ってはさえずる森のツグミのように、軽く慌ただしい日々を送るばかりである。結局この男は、現実の社会のどこに行っても、明確な位置を占めることが出来ず、ただ無意味に飛び続けることしかできないのだ。そんな彼を、周囲の人たちの多くは愛情をもって見つめるが、本人は、自分でもどうすることもできないそんな日々の連続に少しずつ疲弊していく。


主人公が偶然通りかかったある建物の広間で、グランドピアノの周りに集まって合唱をしている見知らぬ男たちを即興で指導して音を整えてあげるシーンは有名だ。
彼が現実の社会の中で、意味のあるなにかをなしえるのは、こういう些細な一瞬でしかありえない。だがその瞬間の、なんと友愛にみちて美しいことか。
また、ぼくがもっとも感動したのは、主人公がオセチア人らしい友だちと待ち合わせる、夜の酒場を映し出した官能的なカメラワークである。ほとんどこのシーンだけのために、この映画はあるといってもいい。


そして、主人公の日常の軽さと無意味さの延長そのままに、前触れもなく訪れる結末のあっけなさ。そのシーンの後に、淡々と交わされるワイン用のぶどうのできについての老人たちの会話と、変わりなく時を刻み続ける時計の針の音。


社会のなかで定住の場所をもてないままに軽々と飛翔し続けた、この小鳥のようなでたらめな男の視線を維持することによって、その後のイオセリアーニは映画を撮り続けたのだと思う。
映画を見ること、そしてまた生きることの本当の楽しさに触れることのできる、これは奇跡的なフィルムだ。