『溺レる』 物語と暴力

溺レる (文春文庫)

溺レる (文春文庫)

川上弘美の短編小説集『溺レる』には、(異性間の)恋愛や性的関係をテーマにした7つの作品が収められている。
これはつまり、性的な転移関係を題材にした小説が集められているということだ。
作品はすべて、女性の主人公による一人称の語りの形をとっている。


たとえば、表題作「溺レる」は、駆け落ちしてあてどもなく旅を続ける男女の話だが、ここでは、こういう仕方で何かから「逃げ」ることを選択した女性の心情が、次のように述べられている。

幼いころ遊びほうけていて、帰るべき時間よりも遅い時間に家路をたどることがあった。どんなに怒られるだろうかという心配よりも、ゆらりとしたいつもと違う空気の中にいるような、少しうれしいような気分に満ちて道を歩いた。どうせ怒られるのだし、どんなに怒られても死にはしない、いつかは死ぬのに違いないのだからと、小学校に上がって間もないころだったのにもう思っていた。モウリさんと逃げはじめてから、その時の気分がしばしばよみがえった。(p37)


この漠然とした逃避、あるいは回避への志向は、他の作品に登場する女性たちにも共通してみられるものだ。また、これらの女性たちは、やはり何か名指しがたいものに対する「こわさ」「おそれ」を感じているが、そうした感情を実は男性たちの方が強く感じているらしいことにしばしば気づく。
現実における何かからの逃避、あるいは回避への志向、また現実のなかに「こわさ」や「おそれ」を感じるという心理は、関係のあり方に形式主義的な、あるいは演劇的な要素を帯びさせることになる。


「可哀相」という作品は、技巧的には収録作品中もっともよく書けているものだと思うが、ここに描かれている男女間の性愛は、まさにそういうものである。それは完全にプレイ(演劇、形式性)であり、そうすることによって関係の具体性のようなものを登場人物たち(男女)は回避しているように見えるが、しかし、そこに自足することを良しとしているわけではない。
その理由は、プレイ(演劇、物語)というものが、互いを「役柄」として置換可能なものに変えてしまうことへの、醒めた自覚があるからだ。
だが、ここで重要なのは、登場人物たちが単純に物語を否定しそこから脱却することを望んでいるわけではない、という点である。

違う。ナカザワさんと、する、ときには、物語みたいなものはほとんど必要ないのだ。物語がありすぎると、ナカザワさんとでなくともよくなってしまう。誰とだってよくなってしまう。是が非でも、なにがなんでも、ナカザワさんとでなければいけないというわけではないのだが、ナカザワさんとでなければ、やはりなんともつまらない。ずいぶんおもしろくない。(p84)


恋愛や性愛の「物語」としての虚構性を認識しながらも、何かからの逃避、あるいは回避の遂行という目的のためには、物語はやはり必要不可欠なものだ、というスタンスがここにはある。
すると、上の文章における「ナカザワさん」という固有名詞が、物語(構造)を脱却するものとしての「固有名」(クリプキ、柄谷)とは、実は少し違っていることに気がつくだろう。
この作品集に出てくる男性の固有名詞(すべてカタカナで表記されている)は、いわば物語であって同時に固有名であるもの、あるいは両者の中間にたゆたっているものだともいえる。

ナカザワさんはおおいかぶさり、揺らし、止まり、旋回し、自在にする。考えたいのに考えられなくなる時間がくる。られない、などということは、あるわけがないのに、ほんとうに、られない、ようになりかける。なりたくてしかたないので、限りなく、られない、に近づく。られない、そのものではなくとも、られない、に、一番近いところまで行ってしまう。(p87〜88)


「られない」などということが、本当はありえないという醒めた(シニカルな)認識を、この主人公は持っているが、『なりたくてしかたないので』、「られない」に限りなく近づこうとする物語の作用(何かからの逃避)を、むしろ人が現実のなかで生き続けるために必要なポジティブな選択として肯定しようとする、そういう意志がここには読みとれる。
たぶん、この点が、この作家の小説の大きな特徴になっているのだろうと思う。
こうした態度を、たんに「保守性」と呼んですませることができるだろうか?

*

七面鳥が」は、所収の作品のなかで最大の力作だといえる。
その大きな理由は、この作品が他者への暴力や憎悪という複雑な問題によく取り組んでいるからだ。
40歳になる主人公の女性トキコは、ハシバさんという知り合いの男性と「深い仲」になりたい、「蹂躙してやり」たいと思っていたが、そうなる前に『少しだけ知った男に、蹂躙され』るという、辛い体験をする。つまり、強引な仕方で迫られて性的な関係を結んでしまうのである。
その苦しさをハシバさんに話すうち、自分の思い通りにならないハシバさんに対する憎しみが忽然として湧き起こってくる。

「泣いてるね」ハシバさんが言った。ふたたび、ハシバさんを強く憎んだ。強く憎む自分の理不尽に腹がたって、さらに強く、自分を憎んだ。いっさいがっさいひっくるめて、世の中ぜんぶを憎んだ。
「泣いてるね」ハシバさんが、繰り返した。憎むのは、かんたんだからだ。憎めば、それで済んでしまう。憎んだとたんに何かが止まってしまう。泣いたり、憎んだり、笑ったりすると、それでもうおしまいだ。でも、ほんとうのところ、ものごとはおしまいには決してならない。いつまでだって、続いてゆく。死んでしまうまで、たぶん、続いてゆく。(p114)


もちろん、愛情と同様に、憎悪も感情の転移であり、物語に他ならない。それが物語であり、所詮は虚構なのだという醒めた認識が、ここにも見られる。
だが、その虚構性を本当に認識できるのは、言い換えれば自分のなかにある暴力性を本当に自覚できるのは、いつでも、傷を受けた者だけなのだ。
つまり、ここでは関係は対称的ではありえない。
そこで、物語の虚構性に対するこの明晰な認識は、傷を癒すことの可能性を本人から奪ってしまうことになる。

トキコさん」と呼びかけるハシバさんの姿が、見えない。草が密に生えているので、見えない。草むらの中は、暗い。暗い中で、息をひそめているのがここちよかった。ハシバさんや男や世の中にしかえしをしてやっているような気分だった。ハシバさんになど、いったいわたしが何のしかえしをすることが許されているのか。それでは男はわたしになんのしかえしをしたのだったか。自分ではわからないところで何かの因果が生まれ、因果の行き先がたまたま自分であるのだろうか。そんなことは承知できないことだ。しかし承知しても承知しなくても、ものごとは起こってしまう。起こってしまったことを、いかにしょう。(p116)


この文章のなかで「男」と書かれているのは、トキコを強引に犯した相手のことだ。
主人公のハシバさんに対する感情や行動は、「男」とハシバさんと世の中との「置換」によって生じたものであり、つまり「物語」の産物である。トキコは自分がそのなかに深くとらわれていることを、自分が被った傷の深さによって自覚し、混乱を背負い込んでしまうのだ。
「物語」の仕組みと自分自身の暴力性についての明晰な認識は、人を解放せず、深い傷を受けた人間にだけ訪れて、その人を深い闇のなかに追いやる。
そのトキコの姿に接して、ハシバさんは「トキコさん、傷(いた)んじゃったんだね」と声をかけることしかできない。
しかしまた、トキコという女性が、ハシバさんという男性が抱えている恐怖感(「おそれ」)に初めて気づくのも、この時なのだ。

うん、うん、としか答えられなかった。ハシバさんはいつものとりとめのない感じに戻っていた。ハシバさんもおそろしがっているのかもしれなかった。とりとめのなさが、ハシバさんのおそれのあらわれなのかもしれなかった。(p119)


川上弘美が描く「関係」についての探求は、このような場所から出発している。