『メゾン・ド・ヒミコ』について、その3

10月20日の映画『メゾン・ド・ヒミコ』に関するエントリーに、ぼくがそのなかで紹介したブログの記事を書いた友達がコメントを寄せてくれて、それに対して長文のレスをコメント欄に書きました。
エントリーのなかでは触れられなかった部分にも、新たに気づけたりする内容だったので、興味のある方はお読みください。


そのなかでも書いたけど、『メゾン・ド・ヒミコ』ではヒロインである沙織(柴咲コウ)と、メゾンで暮らす年老いたゲイの男性たちとの心の交流というのが、重要なテーマになっている。それをとおして明らかに彼女は変貌していくわけだけど、そのことと彼女の父親や春彦(オダギリジョー)に対する心の葛藤というのが、どういう関係になっていたのか。
ラストシーンを見ると、いわばメゾンの人たちという「集団への愛」によって、個人的な心の葛藤を乗り越えたようにも見えるが、そう単純に考えていいのか?
「集団への愛」というのは、日本映画では珍しいテーマだという気がするが、あれが性的なマイノリティーの、主人公にとっては異質な人たちの共同体(集団)だったという点が大事ではないかと思う。明らかに、家族という再生産のための装置とは異なる共同体なんだけど、そこに関わっていく沙織の位置づけ、とくに欲望と愛情の問題というのはどういうことになっているのか。
そういうことについて、あらためて考えさせられた。


沙織が、一人のゲイの男性の名誉のためにキャバレーみたいなところで酔漢と戦う場面は忘れがたい。
ただ、この映画でひとつ納得がいかんのは、高橋昌也演じる実業家の逮捕によって暗礁に乗り上げたはずのメゾンの経営問題が、どう解決したのか、分からずじまいだという点だ。
あと、役者では、西島秀俊も良かった。この人は、柳愛里と共演した『2/デュオ』の頃から好きなので。

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