『泥棒日記』感想その2

ジュネの『泥棒日記』のことは数日前にも書いたが、毎日少しずつ読んでいたのが、ようやく読み終わったので、特に印象深かった部分のいくつかを切り取って、書き写す。

泥棒日記 (新潮文庫)

泥棒日記 (新潮文庫)

その前に、気になったことをひとつ書くと、それはこの作品にはユダヤ人が登場しないということである。この本には、ナチスヒトラーについての言及もあるし、ユダヤ人と同じようにホロコーストの犠牲になったロマの人たちについても書かれた箇所がある。そして自分の出身国であるフランスに対する複雑な感情もたびたび語られている。またジュネといえば後年、パレスチナ人の闘争やブラックパンサーとの連帯もよく知られるところとなった。
だがこの小説には、「ユダヤ」という言葉自体が出てこなかったと思う。それが気になった。
ジュネは、反ユダヤ主義に対しては、どういう立場をとっていたのだろうか?まあ、他の作品を読んでいけば分かるのだろう。
それとは関係なく、作品の後半部から、何箇所かを抜粋する。

『裏切りと、盗みと、同性愛が、この本の本質的な主題である。』(256ページ)


『わたしは十六だった。読者はわたしの言うところの意味を理解されただろう、つまり、わたしの心の中にはすでに自分の潔白さの意識が宿りうるいかなる場所も残ってはいなかったのだ。わたしは自分がまさに人にそう思われたところの、卑怯者、裏切り者、泥棒、男色者であると認めたのだ。(中略)わたしは少しばかりの忍耐をもって自分を省みさえすれば、自分の裡にそうした名でよばれるだけの十分な理由を発見することができたのである。そして呆然となりながら、自分が数知れぬ汚穢から成り立っていることを知るのだった。』(264ページ)


『わたしが「裏切りは美しい」と書いても、誰一人それを誤解して、その場合わたしが言っているのは、この行為が絶対に必要であり、高貴なものとなる場合、すなわち、それが「善」の成就をゆるす場合であると卑劣にも信じる――信じるふりをする――ことはないと確信する。わたしは穢らわしい裏切りについて語っているのだ。いかなる英雄的な動機もそれを正当化することのない裏切り。』(372ページ)


『わたしが徒刑場の中に認めた母性的なものは、決して女性的なものではない。(中略)彼らは、傷ついてしまった現在、曖昧さに耐えることができるのだ。彼らはそれを願いさえする。彼らの身を屈めさせている優しさは、女らしさではなく、曖昧さを発見したからなのだ。わたしには彼らは、彼らの雄としての残酷な欲望がそのために鈍ることなしに、ときにみずから生殖し、産み、そしてその産んだ卵を抱きうる状態になっているように思われる。』(388ページ)


『わたしは、彼らが皆、はっきりと意識しないながらも、そうすることによって、わたしをいっそう鼓舞し、昂揚させ、わたしに仕事への勇気を与え、そしてやがて彼らを守護するためにわたしが力を――彼らから放射された力を――十分に蓄積することを可能にするのだということを知っていたのだと思う。』(386〜387ページ)


『わたしは、貧困と、罰せられた罪とについて、他のものよりも力を入れて、そして何度にもわたって述べた。この二つのものに向って、今後ともわたしは進むだろう。(中略)しかし誤解しないでいただきたい。決して不幸の哲学を実践しようというのではない、その反対なのだ。わたしがそれに向って進む徒刑場――この、地球上の、そして精神内の地点をあえて名ざそう――は、あなた方の世界の栄誉や華やかな盛儀よりも多くの喜びをわたしに差出す。』(413ページ)


ジュネの作品が読者にもたらすものは、自分と他者との身体的な距離がかき乱され、打ち壊される体験ではないかと思う。