『眼と精神』その3

眼と精神

眼と精神


読書メモ三回目の今回は、「哲学をたたえて」(1953年)についてです。
ファシズムの問題に対する捉え方など、メルロの思想の傾向がいっそう明瞭にうかがわれる、たいへん興味深い論考(講演録)ですが、前回までよりだいぶ短いエントリーになると思います。


ここでメルロは、全体主義的、生命主義的というベルグソン哲学の一般的イメージを覆そうとし、それが日常の生活や知覚に根ざすものだということを強調する。

したがってベルグソンの言う有名な<合一>は、必ずしも、哲学者が存在のなかにおのれの根拠を置くということを意味するものではありません。(p208)

もともと物質・生命・神などは、われわれに知覚されているかぎりでしか問題とはなりえないのです。(中略)これまで<合一>と信じられていたものは、実は<共存>なのです。(p210〜211)

こうした考え方は、どこかデリダを思い出させる。
そして、

・・・計らずも彼は、精神の根本特性を、<偏在性>とか<よそにも存在しうること>とか<存在を間接あるいははすかいにしか志向しえないこと>などと定めたことになるのです。(中略)存在へのこうした間接的志向、存在からのこの隔たりを、・・・(p213)

したがって、虚無よりも最初にある<存在>とは、・・・カント的意味での<現存在>、つまり<根源的偶然性>なのです。(p214)

メルロは、存在の中に非存在や差異あるいは偶然を導入しようとするのだ。これも、デリダ的な差異の思想につながるものだと言える。それは、幽霊的と言いかえてもいい。「幼児の対人関係」で重視されていた鏡像の生の次元に、積極的な価値が見出されているのだ。


そして、存在の根底に偶然を見出そうとする考え方は、メルロにおいては、ベルグソン哲学の反オプティミズム(反・最善観)的な、人間的な解釈に通じている。

ベルグソンを読んでいますと、人間の構成された存在そのものの根底に、この世の不幸と妥協することのない、むしろそれに逆らいながら人間の味方をしようとする<或る慈悲>の働きが見出されるようになっています。(p218)

ベルグソン哲学に「人間の味方をする神」を見出す、このメルロの解釈は、晩年の反ユダヤ主義に対するベルグソンの振る舞いを論じた<哲学と世界>という短いが傑出したパートを生んでいる。
ここでは、苦悩する民衆と共に在るために、ユダヤ教からカトリックへの改宗を拒んで死んだベルグソンの態度について、次のように述べられる。

ベルグソンにとって、さまざまの人間関係を断ち生活と歴史の絆を断ってまで、ぜひともそこで真理を求めなければならぬといった<真理の場>などありはしないということを、彼の行なった選択それ自身が証言しているからです。われわれと真理との関係は、他人というものを経由します。われわれは他人とともに真理に赴くか、さもなければわれわれの向っているところが真理ではないか、そのいずれかでしかありません。もっとも、もし真理が偶像でないとすれば、他人もまた神ではないという所に、最大の難かしさがあります。他人なしで真理はないが、しかし真理に到達するには、彼らとともにいるというだけでも足りないのです。(p224)

僕は、この最初のセンテンスを読んだとき、映画『ハンナ・アーレント』の最後で、講義で自説を語り切ったハンナを非難した、ハンス・ヨナスの言葉を思い出した。あのセリフは、このような意味で理解されるべきものだと思う。
また、(デリダなどと同じく)生活や日常の人間関係に根ざした思想を志向したメルロ自身の立場の表明でもあろう。
だが最後の一節では、そうした姿勢にもまた陥穽が潜んでいることを、メルロは指摘しているわけである。「他人もまた神ではない」という言葉は、「世間」を絶対不可侵のもののようして生きる天皇制日本のわれわれにとっては、特に明記しておくべきものではないだろうか?


ソクラテスの死を論じた次のパートも、非常に力強いものだ。
そこでメルロは、ソクラテスのイロニー(反語、逆説、皮肉)を、曖昧で策略的でうぬぼれに満ちた「ロマンティッシュ・イロニー」(冷笑的なもの)とは全く異なるものとして描く。

ソクラテスのイロニーとは、他人との、距離をとりながらも真実なる関係のことであり、またそれは、各人が自己でしかないのは避けられないことだとしても、しかしすべての人はおのれを他者の中にも認めうるものだというこの根源的事実を表わしているのであり、またそれは、自己をも他者をも解放して自由ならしめようとする試みでもあるのです。(中略)ソクラテスは、彼ら以上に知っているわけではなく、彼はただ、絶対知というものはありえないということ、そしてわれわれが真理に開かれているのは、むしろこの欠如によってなのだということを、知っているにすぎません。(p230)


また、マルクス解釈では、偶然(ということは、人間の自由)と関係の思想家としてのマルクスという、アルチュセールや廣松に先駆けるような見方を示している。

歴史的意味は、人間相互間の出来事に内在し、そしてそれと同じように脆いものです。(p240)

ですからマルクスも、弁証法を物の方へ移すのではありません。彼はそれを<人々>・・・の方へ移すのです。(p241)


最後に、哲学者のイロニーという問題が再び論じられる。

哲学者の跛行は、彼の徳です。真のイロニーは、アリバイではありません。それは務めなのです。また人々の間での或る種の活動を彼に命ずるといった性質の超俗です。(p248)


次回はいよいよ、最後の文章、「眼と精神」についてです。