『泥棒日記』

このところ、ジュネの『泥棒日記』を読んでいるが、これはたしかにすごい。

泥棒日記 (新潮文庫)

泥棒日記 (新潮文庫)

わたしが先刻から語っている人間は(そしてその中には、薔薇の花の匂いをかぐ時が、ある晩監獄で徒刑場へ出発する囚徒の一団が歌うのを聞くときが、わたしが白い手袋をはめた曲芸師に惚れこむ時が、含まれている)そもそもの始まりから死んでいるのだ、つまり、定着されているのだ。なぜならわたしは、始源の不幸を包含するとわたしが考えた終末以外、他のいかなる終末のためにも生きることを拒否するのだから。(175ページ)


この自伝的な小説は、ある絶対的な孤独、世界への拒絶、あるいは自己愛についての小説だと思うが、この自己愛は逆説的にも、性愛を通してもともと他者へと開かれている。いや、「他者」という言葉も違っていて、ある種の集団への愛へ、少なくとも複数性へと開かれているところに特徴がある。
語り手の愛が差し向けられるその集団とは、たとえば次のように描かれるものである。

一九三二年、当時スペインはいたるところに寄生虫、つまり、乞食の群れがうようよしていた。乞食たちは村から村へと移り歩き、暖かかったのでアンダルシアへ、富んでいたのでカタロニアへと行くのだったが、その他どこでも国じゅうが我々には暮らしよかった。わたしは、要するに、そうであることを自覚した一匹の虱だったのだ。(17〜18ページ)


1930年代のヨーロッパを、国境を越えて(ロマの人々のように)移動しつづける、乞食や犯罪者や「裏切り者」(スパイなど)たち、要するに当時の社会でその存在の価値を否定されると同時に浮かび上がった、「社会のクズ」のような集団。
この小説の主人公は、語り手自身の自己愛であると同時に、この特殊な集団そのものであるともいえる。
この人々は、1930年代という社会状況のなかで生み出され、その多くはホロコーストで死んだだろう(しかし、語り手の徹底した自己中心的な愛と欲望は、もうひとつの「社会のクズたち」の表象であるナチにも注がれうるだろう)。
また、戦後のヨーロッパでは、このような国境を越えた大規模な移動は不可能になったであろう。とりわけ、「鉄のカーテン」を越えることは。その意味でもこの集団は、特異な歴史性を刻印されていると思う。


ジュネは、その独特な愛と欲望をとおして、この人々のなかに、あるいは外側に生きた。

『人間たちから遠く離れた孤独のなかで、わたしは、ほとんど、全身ただ愛であり、ただ献身であった。』(106ページ)



『裏切り者や裏切り行為へのこの追求は、性愛の追求(エロチスム)の一つの形態以外のものではなかったのだ。』(123ページ)



『才能とは、素材に対する礼譲にほかならず、それは声なきものに歌を与えることなのである。』(162ページ)