小泉と盧武鉉の「改革」

郵政民営化」と日本の役割の変化


今度の選挙では「郵政民営化」ということが争点だと自民党やマスコミは言ってるが、ぼくは民営化されると「かんぽの宿」とかがなくなってしまいそうなので、民営化には反対である。
だからということだけではないが、「小泉自民党」には入れない。
かんぽの宿」というのは、採算はとれてなさそうだが、ああいうものがあるおかげで、ぼくのようなお金のない人間は結構助かる。そういう「無駄」がそぎ落とされてしまうのは、融通のきかない嫌な話だ。


郵政民営化」というのは、小泉政権のかかげる改革の眼目のひとつで、これらの改革は「既得権益」を握っている奴らをやっつけることだ、みたいに思われている。
既得権益」を握っている人たちというのは、公社や公団に天下った官僚たちとか、それに結びついた政治家とか、労働組合とかであるという(「既得権益」という場合、日本では公社・公団や政治家、あるいは労働組合は批判されても、財界がほとんど批判の対象にならないのは奇妙なことだ。)。
しかし、これはやはりレトリックにすぎず、小泉がやろうとしているのは、これまでの「既得権益」層を排除して、別のところに「権益」を誘導するようなシステムに作り変えることであると思う。
問題は、どのようなシステムがより住みやすい社会を作るのによいか、ということで、
郵政民営化」に代表される構造改革路線がそれであるとは、ぼくは思わない。
しかし、「既得権益」を握る層をやっつける、というレトリックがなぜこれだけみんなに支持されるのか、そこが重要だろう。


小泉が言っている「抵抗勢力」とは、政治的には旧田中派に結びつく人たちのことで、「地方」など戦後の日本社会において恵まれなかった部分に利益を再配分することで金と議席を獲得してきた勢力のことだ。この勢力はまた、中国とのパイプを保持することで、アメリカからの相対的な独立性を維持しようとする外交戦略をとってきた。
この勢力を一掃しようとする小泉の政治は、好意的にみれば、中国との関係強化をカードにしてアメリカを牽制するという戦略をとらない形で、日本の国際社会での地位を高めようとしていることになる。そのために、「憲法改正」や「郵政民営化」などによって、アメリカが望むような形に日本の国のあり方を変えていこうとしているわけだ。
つまり、「親米による国益の確保」が、政治的には小泉政権のプランだということになろう。
その代償として、国連の常任理事国入りなどでアメリカからの支持が得たいのであろうが、今のところこの戦略はうまくいっていないようだ。アジアのなかでは孤立し、そのことによってアメリカに対する発言力がむしろ低下し、そのうえ最大の「武器」であった膨大な個人預金も「郵政民営化」によってアメリカや国際金融資本に手渡そうとしている。
このあと、アメリカにとっての日本の存在価値というと、軍事力を肩代わりしてやることしか残らないのではないか、と思う。
この役は、東アジアではずっと韓国が担ってきたのだ。日本の役は、これまでは「経済・財政」担当だった。その役回りが、いま変わりつつある。
これにはもちろん、米軍の再編が、大きく関係しているのだろう。

「改革」の時代のナショナリズム


ところで、韓国の盧武鉉大統領が、解散して総選挙にうってでた小泉首相を「うらやましい」と言ったそうだ。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050824-00000265-kyodo-int
この二人の政治家は、まったく正反対のようにみられることが多いが、「改革」を推し進めることを自分のテーマと考えている点では、同じ時代の同じタイプの指導者と見てよい側面があると思う。
盧武鉉を大統領に押し上げたポピュリズムと、小泉の独裁者的な手法(たしかにヒトラーの台頭時を思い出させるところがある)を支えているポピュリズムとが、まったく別のものであるとはいえない。
ただ、「改革に抵抗する、既得権益を握っている層」とみなされているのが、日本と韓国では全然違う人たちだ、ということはある。それは、この二つの国の、過去と現在におけるアメリカとの関わり方の違いに関係している。


韓国において「既得権益を握っている抵抗勢力」とは、南北の分断体制が維持されることで利益を得てきた、財閥やハンナラ党、また軍や情報部、といったことになるのだろう。盧武鉉は、この層を駆逐し、アメリカに対して独立的な国の方向づけを行う政治家として期待され、大統領になった(ここが小泉とは反対だ)。
今日の韓国社会において、「南北の統一」という言葉は、朝鮮半島から在韓米軍を追い出し、半島の国土全体を自分たち民族の手に取り戻すという、融和的であると同時にナショナリズム的な性格を強く持っている。この「ナショナリズム」に、今日の日本のそれと同様の要素がないかどうか、即断できない。
それだけでなく、「既得権益」層の駆逐というテーマが多くの国民に支持されたのは、財閥系大企業の支配に反感を抱く、ネット企業家を目指すような若い人たちにも支持されたからだろう。個人主義的な「改革」への志向と、反米ナショナリズムとが結びつく理由が、そこにあると思う。


経済・社会構造の改革への意志と、ナショナリズムとが結びつく構図は、日本と韓国に共通するものだと思う。
つまり、「既得権益」を握っている層が国(民族)を駄目にしたのだという考えによって、若い層をはじめとする大衆の現状に対する憤懣と「愛国」的な心情とが重なるということになっている。
これが、「改革」(グローバル化)の時代のナショナリズムのあり方だとすると、このナショナリズムの性質は、日本と韓国だけではなく、東アジア一帯に共通するものだといえるかもしれない。
それが共通して存在する理由は、この地域においては冷戦とそれに起因する国内の政治・権力構造が、現在まで残存してきたという、特殊性にあるのだろう。


「反米」が日本のナショナリズムの根幹にないのは、アメリカと結びついてきた日本の支配層が大衆の支持を受け続けていることを意味していて、戦前と比較すると一見対照的にみえる。
これは、戦後アメリカとの同盟によってもたらされた経済的な繁栄と安定に、日本社会が深く同一化したことを意味するのだろうか。それとも、アジアとの関係とも関連して、近代以後の日本社会の性格の本質的な部分に関係しているのだろうか。
やはりこの地域の近現代史の特殊性について考えることは、避けて通れないのだろう。