『ヒトラー〜最後の12日間〜』

平日の昼間だったが、満員の盛況だった。結構評判になってるらしい。


この映画については、「独裁者を美化している」という批判もあったと聞くが、別にそういう印象は持たなかった。どこにでもいる卑小な人間としてのヒトラーが描かれていて、それはぼくが予想したヒトラー像と大きく違わないものだった。欧米ではこういう描き方もこれまでタブーだったということか?「極悪の独裁者」みたいな描き方は、かえって英雄化や神秘化を進めてしまうと思うが。
また、必ずしもヒトラー中心の映画というわけでもなく、周囲の軍人や女性たち、そして市街戦で地獄絵図と化したベルリンの町の人々の様子が広汎に、丁寧に描かれていた。


この映画が、今までになく「人間ヒトラー」を正面から描いた作品だ、という評価が事実だとして、それが可能になった条件はなんだろう。
即断できないが、アフガンやイラクでの戦争が関係しているのではないか。その推移を見ていると、いくらなんでもアメリカ公認の歴史観を鵜呑みにするのはまずいと、多くの人が痛感したはずだ。「ナチス」や「ヒトラー」を絶対悪としてしまって片付けることのまやかしに、多くの人が気づかざるをえない状況を、ブッシュ政権が作った。
また、ドイツと周辺諸国との和解が進んだことが、こうした歴史の見直しが容認されることにつながったのかも知れない。
いずれにせよこれは、ナチ復権につながるような映画ではまったくない。


この物語の原作は、ヒトラーの秘書であった女性の自伝かなにかのようで、この女性も重要な登場人物として映画に出てくるし、ラストにはモデルになった当人が登場して喋る。
ストーリーのなかで、この若い秘書が仲間と話していて、ソ連軍が迫っているベルリンからどうして逃げ出さないのかという理由として、次のように言う。
自分がヒトラーの秘書になると言ったとき、家族や親戚は「ナチには関わるな」と言ってみな反対した。今になって「やっぱり私が間違ってました」と言って帰るわけにはいかない、というのだ。
これは、歴史全体から見ればつまらない「意地」である。
しかし、ヒトラーが最後まで降伏せず半狂乱になるのも、またドイツの軍人たちが徹底抗戦を選んで市民を道連れに死んでいくのも、結局はこのつまらない「意地」として描かれる。
ヒトラーの狂乱ぶりは、駄々をこねる子どものようだが、それが大戦末期の数百万の命を無駄に奪った。また、ドイツの軍人たちが「無条件降伏」を拒む理由として、「屈辱を二度繰り返すのはごめんだ」という意味のことを何度も言う。これは、あの第一次大戦の敗戦のことを言ってるわけで、実はその敗北の屈辱がナチ台頭の土台にもなったわけだから、元々「降伏」という選択肢のないところで、この国は戦争に突入していたのだとも思える(この二つの戦争はつながっている)。
それらは、犠牲になった人々の命からみれば「つまらない意地」といわれて仕方のないものだろう。だが多くの場合、人間はそういうレベルで行動を決定しまう。
そういうことが、ひとつ描かれているのではないか、と思った。


それから、この秘書の女性が、「総統は私的には優しい人なのに、公的には冷酷なことを言う。それをどうとらえていいか分からない」という意味のことを言う場面がある。
今からみると、これは非常にナイーブな言葉にしか思えないが、実際自分がその立場にいたらどうだろう?「尊敬すべき総統」といったイデオロギー的な部分は別にして、日常親しく接している人の、どの部分を重視すればいいかは、たいへん難しい問題だろう。


この映画の最後で、モデルになった女性が登場し、「あの時若かったから自分のしていることの罪が自覚できなかった、というのは言い訳にならない。目を開いていれば分かったはずだ」というふうに言うのだが、この言葉の、映画のストーリーとのつながりが、じつはすっきり分からない。はっきり言えば、とってつけたような感じがする。
この女性が目を開くことが可能だったかどうか、そこのところを、この映画がはっきり描いていたとは思えない。そこには、あまり関心がなかったのではないか?


戦争と歴史の現実は、虚飾を交えず、しっかり描かれていたと思う。
これほど「反戦」的な映画というのも、そうないであろう。
でも、やはり少し長すぎる気がした。