A・ヒューイット「敵と寝ること」

ファシズムにおける全体主義的欲望が瓦解するのは、それに対立するものの重圧によってではなく、自らが作動させる欲望のメカニズムの重圧によってなのだ。
                               (p123)


アンドリュー・ヒューイットの、ジュネをめぐる秀逸な論考「敵と寝ること」(太田晋訳)は、雑誌『批評空間』の第Ⅱ期16号(1998年)に掲載された。副題は「ジュネとホモ‐ファシズムの幻想」。
非常に興味深い論文だと思うのだが、雑誌のバックナンバー以外では読めないようなので、ここで簡単に内容を紹介しておきたい(なお、ページ付けは掲載誌のもの)。
この論文の眼目は、(ジュネにおける)ホモセクシュアリティファシズムとの関係を正面からとらえて分析し、「欲望の持続」を肯定するという方向で、両者の連結を解体しようとするものだと、ひとまず言える。
しかし、その企てがファシズムそのものを「ファシズム全体主義化」と区別してとらえるという戦略と重なっている点が、注目されるところである。これはより政治的に言うと、「右翼アナーキズム」的な衝動と、全体主義への衝動との分離しがたい複合としてファシズムを見出すという戦略でもあるようだ。


こうした分析の出発点になっているのは、「審美的なもの」との「官能的なもの」との関係について次のような考察である。

私は、この官能的なものと審美的なものとの連結――「これらが密接に結びついていないはずがあろうか?」――を、ホモセクシュアリティファシズムとの連結を理解し、解体に導くための方法として重視してみたいと思う。官能的なものと審美的なものとのこうした関係は、政治的イデオロギーと性的欲望とのあらゆる結びつきにおいて、その中心に位置しているにちがいないと、私は強く主張する。歴史的に見れば(美的趣味を判断力の作用として鋳直すことで)審美的なものから官能的なものが分離されたのは、趣味に関する自律的言説が発展したからにすぎない。しかし、審美的ものの脱官能化の核心にあるのは、無−関心であるべき判断力の権能において、関心の作用としての官能的なものがスティグマを付与されるということだ。(ホモセクシュアルな)欲望という範疇を美の領域に導入する――先に引用した一節のような仕方で――ことで、官能を超越した無関心さという美的判断の見かけは破られてしまう。(中略)つまり、ホモセクシュアルの美学以前的[preaesthetic]で官能的な欲望が、あらゆる美的判断の基礎にある関心と欲望を暴露してしまうのだ。
                             (p104〜105)


ジュネの文学におけるような、官能的な欲望の「美の範疇」への導入は、審美主義的な領域が持つ安定性の見かけを破ってしまい、美的判断が欲望に影響されるものであることを暴露することによって、『今度は美学を政治的判断に導入することが容易になる。』(p105)。つまり、「政治の美学化」(ベンヤミン)としてのファシズムの出現を容易にする。
こうした視点に立つ論者は、しかし、こうした官能的な欲望の導入による美と政治の領域の惑乱を、不健康な病理として排除しようとするのではない。
むしろ逆に、

関心としての欲望の執拗な持続(insistence)に、(政治の―引用者注)美学化への抵抗(resistance)を見出してみたいのだ。
                              (p105)


と述べるのである。
この点については、論文の最終部でより詳しく述べられることになる。


論文ではここから、ジュネのテクストにおけるホモセクシュアルな欲望(「ホモ−ファシズムの欲望」)の両面性、つまり「審美的もの」の優位(全体主義化の衝動)と「官能的もの」の優位(アナーキズム的な衝動)とが綿密に分析されることになるわけだが、ここで論者が特に批判的に参照するのは、サルトルの短いエッセイ「協力者とは何か」である。
このエッセイへの言及から導かれてくる重要な帰結のひとつは、次のようなものだ。

社会秩序は[同性愛の]内部化を通じて全体主義化するが、エロティックなもの――もしくは先に私が「官能的なもの」としてカテゴリー化したもの――は、[内部化による]社会的な揚棄の可能性を排除する。社会的なものの特定的かつ性的な具体例が――身体として――欲望される場合、そこにあるのは関心を排した審美主義というよりも、むしろ物質性と関心であるからだ。このことは、まさに同性愛者によって措定される政治的脅威であるように思われる。つまり、欲望の対象である男性ではなく、社会的紐帯そのものが性愛化されるわけだ。(中略)ホモセクシュアリティは、社会的交渉の続行として機能するが、そこからの逸脱としてもなお機能するのである。
                                 (p110)


ここから、「交渉」つまり社会的関係性そのものをフェティッシュな欲望の対象とする「構造的欲望」のモデルと、あからさまに他者の身体への「関心」が重視される欲望のモデルという、「ホモセクシュアルな欲望に関する二つのモデル」が析出されてくる。
なぜ特にホモセクシュアルにおいて、社会的関係性そのものへの「構造的欲望」が重要な要素と考えられるのかは、別の箇所で詳しく語られているが、ここでは詳述しない。
ここでは、(ホモセクシュアルである)ジュネの性的な欲望が、社会的関係性そのものをその対象とすることがありうること、また同時にそこからの「逸脱」として機能しうるものでもあることが示唆されている点が重要なのだ。




論文ではここで、ジュネにとっての「共同体」が、言語的であると同時に、本質的にエロティックなものであったという事実が押さえられたうえで、ジュネが体現してきた反社会性が、実はある種の社会秩序(「交渉」)への欲望を表明するものに他ならないという、重要な認識が示されることになる。

社会に背を向けるということは、純粋かつ存在論的に非関係的であるような孤立の王国の創設であるどころか、あらゆる社会的および性的な位置付けの前提条件である。すなわち、人は社会秩序に背を向けることで、社会秩序――および交渉――に対して自らの欲望を表明するのである。

                                (p117)


そしてここから、ジュネのセクシュアリティファシズムとの関連についての、もっとも興味深い考察が、サルトルの名高いジュネ論『聖ジュネ』の分析を足がかりにしながら展開されていく。
論者によれば、既成の社会に対するジュネの敵意は、社会との直接的な同一化という(エロティックな)欲望へと彼をかきたてることになる。

というのも、ジュネが同一化しなければならない他者とは、具体的な特定の社会であるはずだからである。社会に対するジュネの敵意は、社会に対する直接的な――すなわち媒介なき――関係に由来しているのだ。超越性が集合体を通過しなければならないのだとすれば、われわれはホモセクシュアルの欲望を、そのような集合体にアイデンティティを付与したいという欲望と考えなければならない。
                                 (p119)


これに先立つ部分で論者は、やはり『聖ジュネ』に依拠しながら、このジュネが希求した共同体のあり方が、実は「農民階級に代表される反動的な(あるいはノスタルジックな―引用者注)民族共同体」ではなく、超越的な「国家」に近いものであったと語っている。
ジュネにとって、このような欲望の対象となる理想の社会は、「貴族的共同体」という形をとったが、それは「社会の諸力に対抗する国家の諸力に同一化」するものだと、論者はサルトルの分析を跡付けながら語る。
ジュネを再生産に寄与しない「余計者」として放逐した既成の共同体主義的な社会の諸価値の虚偽を暴きだすものとして、「消費する貴族たちの共同体」による国家の支配が夢想され、欲望されるのだ。

消費者の社会としてのネオ封建的共同体というサルトルの説明は、重要である。それは明白に、自己を再生産する務めを課された社会秩序からこの集団を引き離しているからだ。
                                 (p120)


さらに、捨て子でありホモセクシュアルであったというジュネの伝記的な事実を「生産/消費」の問題系に結びつけるサルトルの論理の帰結を、論者は次のように要約している。

再生産という家族の領域から外れた者としてのホモセクシュアルは、共同的直接性という概念そのものの否定でもあるような共同体に、自らを根付かせる。そのような共同体の可能性は、国家を通じて形象化されるのだ。ジュネは自らを産んだ「行政府=行政体」へと、リビドーを備給するのである。
                                (p121)


ここでは、家族という直接的な共同性の領域からの離反というジュネの在り方が、国家という別種の共同体との媒介なき同一化の欲望へと彼を差し向けたという、サルトルの見方が明快に示されている。




こうして、最後に浮かび上がってくるのは、ジュネの欲望が、国家(象徴秩序)への従属という全体主義的な衝動と、象徴秩序の再生産のサイクルに回収されない破壊的な消費の過程(貴族性)としてのアナーキズム的な衝動という、二つの性格を重ね持っているという事実である。
そして論者が強調するのは、この二つの衝動(傾向)の、容易に分離することが出来ない結びつきだ。
ジュネの文学の本質は、この自己の複合的な欲望の持続を極限まで推し進めることによって、全体主義への抵抗をいわば内在的に実践しようとしたところにあることになろう。

ファシズムにおける全体主義的欲望が瓦解するのは、それに対立するものの重圧によってではなく、自らが作動させる欲望のメカニズムの重圧によってなのだ。
                               (p123)


このようにサルトルを足がかりにして、ジュネの欲望と文学のあり方を探ってきた論者は、『何であれ絶対的な分割可能性を示唆することを、私は望まない。』と語ったうえで、最後に再び、審美的なものによって排除される性的(官能的)なものの属性である「関心」の重要性に言及し、象徴秩序の形成(去勢)の過程である「美学化」に、生産に関与することなく官能のために消費され続ける(性的な)欲望の持続を対置させる。

つまり、ここでいう関心とは、客体の合目的性への関心ではなく、客体の実存そのものへの関心である。
                               (p125)


客体の実存そのものへの「物質性と関心」(p110)という、性的なものの属性が、(「政治の美学化」と名づけられる)欲望の全体主義への傾斜に抵抗する、最後の内在的な拠りどころとされるのだ。


ところで論文の結びは、次のようになっている。

ジュネによって上演され、サルトルによって跡付けられたホモセクシュアルな欲望は、人種的/国民的<存在>に関するファシスト的かつ民族的な概念に対しては、例外なく反感を抱くだろう。なぜならホモセクシュアルな欲望は、<存在>に生かせることのない、散種の行為を発動させるからだ。
                                 (同上)