非歴史的な態度

風知草:グローバルの壁=山田孝男
http://mainichi.jp/opinion/news/20130520ddm003070103000c.html



この記事を読むと、今回の一連の橋下発言に対する内外からの抗議・批判が、日本の政治家や大衆のなかに、どのような反応を生じさせたかがよく分る。


それは、『「慰安婦」制度は必要だった』という橋下の発言内容を「口にするべきではない真実」として内輪で密かに共有することによって、強者(アメリカ)への従属という処世上の要請と、新自由主義的な社会に適合した狭小で排他的な国民的自己意識(プライド)の確保という欲求との、両立を図ろうとする退行的な態度である。
端的に言ってしまえば、この社会の大勢が今回の出来事から学んだのは、こういう姑息な逃げ道を作ることだけだったのだ。
安倍首相は橋下発言に関して、「自分たちの立場とは違う」というようなことを言ったが、その意味はきっと、「政権を担っている自分たちの立場では、そんな本音を言うわけにはいかない」ということなのであろう。つまり実質的には自民党政権は、橋下発言の内容を是認しているのだ。ただそれは、「戦略上」公言するべきでない真実だ、というわけである。
大衆社会の多くの部分も、その意見に同調しようとしているように思える。
このところテレビには橋下が連日のように登場して「自論」を好き放題に喋っているようだが、そうしたマスコミの「橋下偏重」の姿勢の裏にも、今回の出来事の衝撃を回避するために、「世界を覆う建前の議論(山田孝男の言う「グローバリゼーション」)によって不当に抑圧されている我が国」という内向きのナショナリズム、いや集団的な自己愛のような鬱屈した気分を醸成したい権力者と、またそれに浸りたい大衆自身の欲望が透けて見える。
そうした、われわれの社会の退行的な欲望が、この記事にはよく現われてると思う。


要するに、安倍にせよ、この記事を書いた山田孝男にせよ、今回の橋下発言に含まれている反人間性や反人権性の根本的な部分を共有している。いや、というよりも、自らのそういう部分との直面を回避し続けようとするところに、こうした欺瞞的な態度や言説が生まれてきているのである。
欺瞞のための空言を操って、生きた人間と歴史の体験を愚弄しているのは、決して橋下一人ではないのである。これは、われわれの社会全体の病理といってもいいものだ。


さて、記事の中で山田は、東郷和彦の文章を引いて「非歴史的」という言葉を持ち出しているわけだが、僕の考えでは、「非歴史的」であるのは、橋下や安倍や、そして山田のような(東郷については、直接著書に当たっていないので保留するが)、現代日本の政治家、論者たちの態度であるということは、ここ数日述べてきたところだが、あらためて論じてみる。
今回の橋下の発言に関して言えば、「過去の人は(「慰安婦」制度を)必要と思った」という言説と、「過去にはそれは必要だった」という言説とは、その意味するところが大きく違う。
前者はたんなる(過去の人の思いについての)推定の記述であるが、後者には語り手自身の価値判断が含まれている。
橋下が言っていることの力点は、後者にある。
これはどういうことかというと、現在の自分の立場や価値観を正当化するために、過去の出来事を自分の主観によって解釈しているということだ。過去の人々が仮にそれを「必要」と考えたとしても、それが事実「必要」だったかどうかということは、価値の取り方によって違う。語り手がそれを「必要だった」と断じているのなら、この言明は現在の人間である語り手自身の価値観を表明したものに他ならないのであり、そこでは過去を生きた他者の経験としての「歴史」は消されている。
言い換えれば、語り手は、ここでは歴史というものの外に自分を置いて、その外に置かれた現在の自分の価値観を表明し正当化するための道具として、過去の出来事(歴史)を道具のように持ち出しているのだ。
これがすなわち、僕の考える「非歴史的」な態度というものである。


これに対して、真に歴史的な態度と呼べるのは、歴史の中にある自分というものを引き受けて、その有限で有責である存在として、歴史の重みと他者の痛みに向き合うということだろう。
つまりそれは、一口で言うならば、自己の歴史化なのだ。
それはまた、自己自身も歴史のなかで他者に裁定される存在だということを引き受けること、つまり自己の倫理化ということをも意味するだろう。
橋下や山田に限らず、今の日本の政治家や論者たちの多くに全く欠落していると思えるのは、この自己の歴史性及び倫理性の引き受けという態度なのである(これが必ずしも「今の日本」に限らない欠落だと思われることは、ここ数日書いてきた)。
自分の存在の位置を、歴史の現実、他者との関わりという現実性から切り離したうえで、そのことによって維持される自分たちの権益や欲望の正当化のための方便として、歴史相対主義の名の下に過去の人々の体験や思考を恣意的に解釈して利用する。
それは、「過去の人々」に名を借りた現在の狭小な「自分」の正当化、現実回避の姑息な方途以外のものではないのであり、自己の都合のために歴史と他者の経験の重みを抹消してしまうという態度において、橋下発言と山田の主張とは選ぶところがないのである。


人権を重視し、その観点から「慰安婦」制度とこの問題への日本の取り組みの不誠実さとを強く非難する価値観は、山田が言うような、たんに「グローバル」で偽善的なものなのではなく、各国の人々が、過去の他者(被害者)の甚大な苦痛の経験に向き合うことを通して獲得してきた、人間の歴史的財産のひとつであると言える。
それは、多くの不十分な点があったとしても、少なくとも、自己の歴史性と倫理性を回避しながら手前勝手な価値観を過去に押し付けるような、現代の日本社会の「非歴史的態度」とは全く違う、主体的な歴史との対峙の産物である。
われわれがアジアや欧米などの各国から非難されているのは、何より、このような歴史及び他者との真摯な対峙を、これまで回避し続けてきたということについてだろう。
その非難の声は決して「抑圧」ではなく、むしろ本質的には「呼びかけ」に他ならないことに、われわれは気づくべきだ。


もし山田のような論者が、本当に「グローバル」な価値の押し付けの独善性を非難したいのであれば、まず自分たちの歴史の引き受け、歴史的・倫理的存在としての自己の引き受けを先に行なってからでなければ成立しないはずである。
自らが歴史と他者に関わる存在であるという事実を認めようとしない者に、どんな正義や理念の追求も可能であるはずがないのだ。
ところが、山田の記事から(そして橋下や安倍の発言と、それを支持する社会の雰囲気からも)読みとれるのは、その現実の重みと痛みから目を背けたまま、そして抗議や非難に託された「呼びかけ」から耳を閉ざしたまま、プライドや「復興」というような虚妄の物語に浸り続けたいという、退行的な情動でしかない。
彼らは実際には、「公正さ」や「正義」には何の関心もなく、ただ自分たちが現実に向き合わずにすむ口実として、「世界中が独善的・偽善的に振舞ってるのだから、われわれも戦略的に行こう」というような空言を弄しているだけなのだ。
彼らは、被害者の証言と告発も、他国からの批判や非難も、自分たちが行なっているのと同等のレベルの独善や偽善にすぎないと考えられれば、現実から目を閉ざしたままでやりすごせると思っているのだろう。
だがそれらの声は本当は、「現実に向き合い、人間であることを取り戻せ」という、瀕死のこの社会に生きるわれわれに対する、呼びかけなのだ。
その切実な声に身を晒すということからしか、われわれの本当の回生は始まらないはずである。