『アウシュビッツは終わらない』

今週はNHKで、イギリスのBBCアメリカのテレビ会社が共同で作った、ナチスホロコーストに関する番組を放映していて、ぼくはそのうち何本かを見た。


とくに印象的だったのは、アウシュビッツで勤務していた元親衛隊員のおじいさんの話で、この人はいまだにナチスの軍隊に属していたというだけで社会のなかで非難され、肩身のせまい思いをして生きなければならないということに、強い不満と憤りを語っていた。自分は、自分の信じるところにしたがって軍務を果たしただけである、という立場だったと思う。映画『ショアー』なども見たが、こういう声はあまり聞いたことがなかったので、たいへん印象的だった。
しかしこの人は、「ナチスユダヤ人大量虐殺などなかった」という見解がドイツで出てきたとき、「自分は収容所で、この目で虐殺されていく人たちを見たのだ」と言って、率先して証言をおこなったそうだ。
ぼくは、この人の姿勢には、一貫したものがあると思った。それは、自分が信じたもの、経験したもの、この目で見たものを、断固として否認しないという強い意志である。


ナチスについて、またホロコーストについては、それがあまりにもはっきりとした悪の表象のようになってしまったために、さまざまな弊害が生じたと思う。
そのひとつは、エチエンヌ・バリバールがどこかで書いていたが、社会に反抗的な欧米の若者たちにとって、ナチスが体制が嫌悪する「悪」のイメージとして、強い魅力をもつようになってしまい、いわゆるネオ・ナチの台頭を促進してしまったということである。
また、ナチスが「絶対悪」とされたことによって、他の国の軍隊、とくにアメリカやソ連など、連合国側がおこなった戦争中の残虐行為が不問に付される結果をまねいた。というより、そもそもそういう意図もあって「絶対悪」のイメージが喧伝された。
また、ホロコーストの被害の特権化ということが、イスラエルが建国後おこなってきた蛮行に対する国際的批判を弱めることに寄与したという意見もある。たしかにその面もあるだろう。しかし、これは非常に複雑な問題だ。


さらにひろく言うと、近代以後の戦争一般、そして近代以後の産業社会全体がもっている非人間性や残虐性と、ナチスのおこなったこととが関連付けられず、ホロコーストナチスだけが歴史のなかの特異な出来事、存在とされてしまい、現在ある世界の構造に対する根本的な批判に結びつかなかったことは、いちばん大きな問題だろう。
たしかにホロコーストは比類のない出来事だったが、歴史のなかの特異点と見なされることによって、その本質が消されてしまうということがある。
ホロコーストの悲劇の「特権化」の最大の弊害は、そこで殺された無数の人たちの存在が「神秘化」されることにあるのではなく(こうした見解の強調は、反ユダヤ主義歴史修正主義につながりかねない)、その「特権化」によって現在につながる根本的な非人間性と残虐性の構造が隠され、不問に付されてしまうことにある。
その構造とは、結局産業資本主義の本質であるが、また収容所において示された人間の極限的な姿がわれわれに突きつけてくるものが、現代社会を生きるわれわれの姿と決して縁のないものではないことも、重要な点である。


プリーモ・レーヴィの『アウシュビッツは終わらない』(朝日選書)が、今を生きるぼくたちにも鮮烈な印象を与えるのは、それが被害を受け巨大な犠牲を強いられた「自分たち」を、絶対的な犠牲者としていわば特権化するのではなく、そうした(特権化という)美学的な作業が不可能なところに置かれていた自分たちの極限的な生の姿を、描き出しているからだ。

だが、無名の死がやって来る前に、もう心は死んでいるのだ。私たちはもう帰れない。ここから外に出られるものはだれ一人としていない。なぜなら一人でも外に出たら、人間が魂を持っているにもかかわらず、アウシュビッツでは、少しも人間らしい振る舞いができなかったという、ひどく悪い知らせが、肉に刻印された入れ墨とともに、外の世界に持ち出されてしまうからだ。(63ページ)

この章に登場する人物たちは人間ではない。彼らの人間性は、他人から受け、被った害の下に埋もれている。さもなくば彼ら自身が埋めてしまったのだ。意地悪く愚劣なSSから、カポー、政治犯、刑事犯、大名士、小名士をへて、普通の奴隷の囚人に至るまで、ドイツ人がつくり出した狂気の位階に属するものはすべて、逆説的だが、同じ内面破壊を受けているという点で一致していた。(149ページ)


強制収容所では、加害者も被害者も、誰も「人間」であることはできなかった。「加害者/被害者」という、人間的・倫理的な区分は、そこでは「逆説的」に意味を失ってしまったのだ。
これは、収容所においてもっともはっきりと露呈した、現代の社会の根本的な特質を暗示しているのではないかと思う。つまり人間的な区分がもはや意味をもたないような、圧倒的な暴力の構造のなかに、アウシュビッツ以後、20世紀以後のわれわれはいるということだ。
この本のなかでもっとも忘れがたい場面のひとつは、上記の番組でもとりあげられていた、ビルケナウの収容所でのユダヤ人たちの反乱に関連して、一人の男が処刑される場面を見つめるレーヴィたちの姿の描写である。

「同志諸君、私が最後だ」
 私たち卑屈な群れの中から、一つの声が、つぶやきが、同意の声が上がった、と語ることができたら、と思う。だが何も起こらなかった。私たちは頭を垂れ、背を曲げ、灰色の姿で立ったままだった。(中略)
 人間を破壊するのは、創造するのと同じくらい難しい。たやすくはなかったし、時間もかかった。だが、君たちドイツ人はそれに成功した。君たちに見つめられて私たちは言いなりになる。私たちの何を恐れるのだ?反乱は起こさないし、挑戦の言葉を吐くこともないし、裁きの視線さえ投げつけられないのだから。(184〜185ページ)


この本でのレーヴィは、自分の体験についてのあらゆる英雄化、神秘化、特権化を拒んで、アウシュビッツでの体験を語っている。
そうして語られた姿は、はたしてぼくたち自身と、無縁なものだといえるだろうか?