靖国をめぐって、ちょっとした感想

靖国の問題を取り上げた番組が、8月15日前後にテレビ各局で多かったようだが、なぜかまったく見る気にならなかった。
ただ神社の前でインタビューを受けていた若者が、「自分の頭で考えようと思って来ました」と答えてるのを聞いて、単純に「いいことだなあ」と思ってしまった。そんなに単純に思ったり感じたりしてはいけないのかもしれないが。
一方、閣僚の参拝に反対してデモをしていた人たちが、神社の近くで警察に逮捕されたそうである。政府に反対するような行動というのは、どんどん規制が厳しくなっている。こういう現実を見ると、上のような単純な発想は間違いである気もしてくる。
あのインタビューを流したニュース番組(たしかNHKだった)も、それなりの意図があって、あんな善良そうな若者の一見「ニュートラルな」声を冒頭に放送したのだろう。


僕自身は、靖国神社というものが大嫌いだし、閣僚の参拝などとんでもないと思う。
「自分の頭で考えたい」という若者の声が大きく報道されることには、こうした靖国に対する否定的な声を、頑迷な少数派の意見のように思わせて囲い込もうとする政府や大資本の意図が隠されているとも考えられよう。


そうは思うが、「自分の頭で考えよう」という気持ちの人が増えていることは、いい悪い以前に、やむをえないところがあり、その気持ちを率直に口にしている若者の顔や声に触れると、やはりかすかな希望を感じる。
そこに希望を見ないでどうするのか、という気さえする。


ぼくが子どもの頃は、まだ冷戦というものがあり、日本国内でも労働組合だの左翼政党だの、学生運動が、いまよりはだいぶ元気だった。それはやっぱりソ連の存在が大きかったと思う。
今の腐敗した体制が崩れて、明るい平等な社会がやってくると言われると、子供心に本当に信じていた気がする。それは「おとぎ話」だとやがて分かったが、「おとぎ話」を聞いて育った子どもの心には、大きくなってもその影響が残るものだ。
それは悪い影響もあるが、生きていくうえでいい影響もある。ぼくはこの意味では、幸福に育った世代だと思う。難しくものを考えなかった、という意味でもあるが。


いまの30歳前後から下の年代の人たちというのは、「おとぎ話」を聞かされずに育った人たちだ。物心ついたとき、すでに「おとぎの国」などどこにも存在していなかった。
正直、この人たちの心のなかは、自分には分からない、と最近思う。
それは、イデオロギーや思想の問題ではない。「左」的な人でも、「右」的な人でも、政治嫌いの人でも、ぼくにとって共通の分からなさが、この人たちの心の世界にはあると思う。


どこまで行っても、分からないものは、分からないとしか言えないのである。
分からない自分としては、この人たちが、「自分の頭で考えたい」と口にするのを聞いたとき、とりあえずそこに期待をかけることからはじめないでどうするのか。
自分が分からない相手に対する、その信頼からはじめないで、どうするのか。


実際には、いまの世の中で「自分の頭で考える」ことはたいへん難しく、考え始めたときに、すでに答えへのルートが引かれているようなものなのかもしれない。
でも、そんな細い道であっても、「自分の頭で考え」て到達した「平和」や「平等」や「自由」や「人権」以外に、ほんものといえるものがあるのか。
あると考えることは、ぼくたちの年代の不遜さではないかと、いまのぼくには思える。